主水大也

 アガルマトフィリアというものは、意識から外れたものを愛するという奇跡のような事象であるが、ある意味生粋のロマンチストであり臆病者でもある。そして、到底許されるべきではない悪癖としても受け止められる。海沿いに建てられた家に住んでいる或る老人は、その排斥の被害にあった。しかし、彼は気にするそぶりも見せず、彼が20代のころ、心を射抜かれた一つの等身大フランス人形を愛し続けていた。彼は毎日起床すると、その人形の前に跪いてその顔をまじまじと見て、頬に接吻をするという一律に決まった行動をした。これは、昔老人が第二のピュグマリオーンへとなるための儀式であったが、老朽化した彼の脳からはそのような煌びやかな神話は抜け出ており、やや形骸化したものとなった。

 ある日曜の朝、彼はいつものように形骸化した儀式を行った後、人形の脚をまじまじと見て、その彼の薄汚れた頬をこすりつけた。彼は何と言ってもこの人形の美麗な脚に心を奪われたのだ。その脚を形作る線はまるで桃源郷に浮かぶたった一つの地平線のように透き通っており、プラスチックでできた肌は奇妙な白い光を放っている。足の指は一本一本が官能的な爪の目を光らせて、何かを耳元で囁いているかのような錯覚を起こさせた。老人はこのような脚に頬をこすりつけた後、左脚を口元にまで持ち上げ、人形の親指を執拗に舐めた。親指は長年この老人と付き合っているからか、所々剥げており、ざらざらとした感触である。その感触がより一層老人の心を加速させた。このすべてが、彼にとって忌まわしいほどに幸せだった。

 一通り終え満足した後、未だ高鳴るその胸を鎮めるために海辺へと向かった。腐りかけた家の扉を大きく啼かせながら開く。目の前には静かな白いキャンバスにただ一つ、波の音を漂わせた絵画の如き情景が広がっている。ふと大きな風が吹いた。潮の香りが彼の鼻腔を掻き毟る。思わず彼はくしゃみをした。その大きな音が海の水にすべて吸い取られるようになくなり、より一層静かな感覚を連れてきたことによって、彼の胸は落ち着いた。

 彼は海沿いを少し歩いた後、海の手前にある森へ向かう。そこにはレモンが自生しており、老人はそれを使って香水を作るのがたまらなく好きだった。果実に少しついた虫を払いながらレモンの実をとっていると、海沿い側に少し気配を感じた。老人は無意識に気の影へ隠れ、気配のある方を確認する。そこには一人の少女が海を眺めて立っていた。腕の部分とスカートの裾がシースルーのワンピースを着こんでおり、麦わら帽子を被っている。いかにも涼しげな格好であった。老人は息をのむ。美しい足が、そこには在った。顔や身体の詳細は太陽の逆光により確認できなかったが、老人はそのようなことは気にも留めなかった。躍動的な海の映像に、不釣り合いなほど麗しいルネサンス期の絵を切り抜いて、貼り付けたかのような美しい脚である。彼は感嘆の声をあげそうになり、強く爪を噛んだ。手に持ったレモンが滑り落ちる。それは音を立てて地面に着地し、斜面を転がっていってしまった。彼は永遠とも思えるほどに目を奪われていたが、まばゆい光に目をやられ、思わず顔を覆った。これではいけないと速やかに森から出て、光が当たらない砂浜へと彼は移動したが、少女は既にどこかへ去ってしまったようだ。取り残された彼はただ、息を吐いて、笑みとも悔しさともとれる表情を浮かべることしかできなかった。

 老人が正気を取り戻したとき、既に海はきれいに橙色に染まっており、夕暮れを知らせていた。この事件は、老人にとって記念すべきものとなった。彼は何年振りかと思われるほどに走り出し、家へと帰った。息を整えながら靴を脱ぎ、部屋へと上がる。部屋にはいつもの調子で格好をつけているガラテイアがいた。彼は人形の目を一撫でした後、脚を一瞥した。ただ、彼のその心にいつものような蒸気が沸き起こることはなく、代わりに切ない風が静かに吹いて行った。あまりにも魅力的に映っていた人工的な艶も、きれいに足の指に塗られたマニキュアもすべて、出来の悪い演劇のように見え、背筋に冬が訪れるのを感じた。老人は何か食べるというわけでもなく、あの脚のことを想いながら眠りについた。

 そのあとの彼の行動というものは全く奇妙なものである。朝起きて魚を一匹食べた後、砂浜の奥にある森へ行き、日が暮れるまで三角座りをした。彼女がふらっとやってくるのを待っていたのだ。ただ彼女はなかなか現れなかった。

 一週間たった後、新しく始まった日常を繰り返していた老人の前に、彼女は現れた。陽炎に浮かぶ彼女の脚は、妖艶に揺れて魅力を誇示していた。老人は話しかけることもせず、ただじっと目を開けて口を押えていた。もし彼女が自分のことを見つけてしまえば、妖精の鱗粉が舞うかのように静かに消えてしまうのではないかと思っていたのだ。日の光が海を輝かせる。アルタイルやベガのような煌びやかな星が、海に浮かんでいるようだった。彼女は海水にその脚を入れ、音を鳴らして歩き始めた。彼女はスカートが濡れないように少し手でそれをたくし上げており、より鮮明に新鮮でつややかな脚が見え隠れした。それを見て老人は後ろにあるレモンの実を一つ捥ぎり、家へと駆けて行った。

 そのまた一週間後、彼は目の前の砂浜にまたも現れた彼女に近づいっていった。震える手を抑えながら、彼は彼女に声をかけた。さっと音を立てて彼女が振り返る。老人は一言も声を発さずに、震える手に持った香水を差し出した。彼女は少し怪訝な顔をした後、その香水を受け取り、手をヒラッと挙げ去っていった。その去っていく脚を見て、彼は独占欲のような衝動が駆け巡り、喉を鳴らして唾を飲み込んだ。

 そのあと、日曜日になっても彼女は姿を現さなかった。そのせいか波の音が嫌に大きく聞こえ、彼は家に引きこもった。老人は少し埃をかぶってしまっている人形をまじまじと眺め、この人形が魅力的に映らない理由を探した。そして気づいたのだ、贅沢を知ってしまったのだと。彼は口をつぐみながら人形の脚を撫でた。すると、この人形の脚と彼女の脚が一瞬同一に見えたような気がした。

 週をまたいだ日曜日、老人は森で木を切っていた。斧を持つ手が痺れ、少し休憩していると砂浜で眠っている彼女を見つけた。麦わら帽子が彼女の髪とともに小さく揺れている。それを見た老人は好機であると思い、音を鳴らさないように彼女へと近づいた。スカートが風で捲れ、彼女の美しい脚が無防備に晒されている。彼はたまらず顔を近づけた。柑橘系の香りが老人の鼻をついた。どうやら差し出した香水を使用しているようである。彼はその香りを嗅いで、唾を飲み込んだ。手の痺れはとっくに冷めている。自然と腕に力が入った。息が荒くなっていく。老人は空を見て一呼吸した後、彼女の臀部に目を付け、斧を持ち上げた。斧は日の光を受けて鈍く光った。

 数日がたったころ、老人は家で静かに横になっていた。

「おい!開けないか!」

野太い声が老人の家に響き渡った後、何かが壊れる音がして男が数人入ってきた。老人はたまらず飛び起きる。

「な、なんで御座いましょうか……?」

「警察だ。此処の近くにある砂浜で、夥しい量の血溜まりがあったとの通報を受けた。貴様、何か心当たりはあるか」

老人は反射的に金庫を見た後、ぶるぶると震え頭を押さえた。

「……あの金庫に何がある?」

壮年の警察がそう尋ねた後、老人は観念したかのように両手を差し出した。隣にいた若い警察が老人に手錠をかけ始める。壮年の警察は金庫に手をかけた。カギは掛かっていなかったようですんなりと開いた。

「これは……」

中には、プラスチックでできた人形の脚が一本入っていた。しかし、臀部は赤い液体で濡れている。柑橘系のにおいが壮年の警察の鼻を撫でた。

「おい!これは人形の脚だろう。貴様、人間を襲ったのではないのか」

眉をひそめた壮年の警察はそう激しく尋ねた。しかし、老人は不思議そうな顔で答えた。

「そこに、あるじゃろうて」

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主水大也 @diamond0830

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