第4話 破死霊メロス、ハッピーエンドを迎える

(私は信頼されている。私は信頼されている。先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。霊体の五臓六腑が疲れているときは、不意にあんな悪い夢を見るものだ。メロス、おまえの恥ではない。やはり、おまえは真の勇者だ。再び浮いて飛べるようになったではないか。これは、ありがたい! 私は、正義の幽霊として天に召されることが出来るぞ。ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。待ってくれ、ゼウスよ、いやアポロンよ。私は生まれた時から正直な男であった。正直な男のままにして天に還して下さい)


 道行く人を透過し、ぞわぞわさせ、メロスは黒い風のように飛んだ。野原でバーベキューしている人たちの、その団欒の真っ只中を通り抜け、霊感のある人たちを仰天させ、犬に吠えられ、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、10倍も早く飛んだ(メロスの体感である)。

 旅人の一団とさっとすれ違った瞬間、不吉な会話を小耳に挟んだ。


「今頃は、あのゾンビも、磔になっているよ」

 

(ああ、そのゾンビ、そのゾンビのために私は、今こんなに飛翔しているのだ。そのゾンビを浄化させてはならない。急げ、メロス。遅れてはならぬ。愛と誠の力を、今こそ知らせてやるがよい。風態なんかは、どうでもいい)


 メロスは、今は、ほとんど全裸体であった。服を構成する霊気を飛行霊力に変換したからだ。大地や大気からの霊気吸収エーテルチャージも出来ず、二度、三度、口からラップ音が噴き出た。

 見える。はるか向こうに小さく、シラクス市の高層建築が見える。高層建築は、夕陽を受けてきらきら光っている。


「ああ、メロス様」


 うめくような声が、風と共に聞こえた。


「誰だ」


 メロスは飛びながら尋ねた。


「フィロストラトスでございます。貴方のお友達、セリヌンティウス様の弟子でございます」


 その若いスケルトンの石工も、メロスの後についてガチャガチャ骨を鳴らしながら走り、そして叫んだ。


「もう、駄目でございます。無駄でございます。全裸で飛ぶのは、やめて下さい。もう、あの方をお助けになることは出来ません」

「いや、まだ陽は沈まぬ」

「ちょうど今、あの方が浄化磔刑になるところです。ああ、あなたは遅かった。お恨み申します。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」

「いや、まだ陽は沈まぬ」


 メロスは胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。飛ぶより他は無い。


「やめて下さい。飛ぶのは、やめて下さい。今はご自分の霊体が大事です。あの方は、あなたを信じておりました。処刑場に引き出されても、平気でいました。王様が、散々あの方をからかっても、ああーうー、とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました」

「それだから、飛ぶのだ。信じられているから飛ぶのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。アンデッドの命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいもの、本当の死を打ち破る為に飛んでいるのだ。ついて来い! フィロストラトス!」

「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと飛んでください。ひょっとしたら、間に合うかもしれない。飛んでください!」


 言うまでもない。まだ陽は沈まぬ。最後の死力アンデッドパワーを尽くして、メロスは飛んだ。メロスの頭は、からっぽだ。だって幽霊だから。そして今は何一つ、考えていなかった。ただ、わけの分からない大きな力に引き寄せられて飛んだ。太陽は、ゆらゆらと地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、メロスは疾風の如く処刑場に突入した。間に合った。


「待て。そのゾンビを浄化してはならぬ。メロスが帰って来た。約束のとおり、今、帰って来た」

 

 と強力な念話で処刑場の群衆に向かって叫んだつもりであったが、霊気の消耗でしわがれた声が幽かに出たばかり、霊感の薄い群衆は、ひとりとして彼の到着に気が付かない。 

 すでに磔の柱が高々と立てられ、縄で縛られたセリヌンティウスは、徐々に吊り上げられてゆく。メロスはそれを目撃して最後の飛翔、先刻、濁流を通り過ぎたように群衆をすり抜け、すり抜け、「私だ、処刑人! 浄化されるのは、私だ。メロスだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」と、かすれた念話で精一杯に叫びながら、ついに磔台に上り、吊り上げられてゆく友の両足に、しがみ付こうとした。当然、霊体の両腕はすり抜けた。

 霊感のある群衆の一部が、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。セリヌンティウスの縄は、ほどかれたのである。


「セリヌンティウス」


 メロスは目に涙を浮かべて言った。


「私を殴れ。力一杯に頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君がもし私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ」


 セリヌンティウスは、すべてを察した様子で頷き、ゾンビ特有の怪力でメロスの右頬を殴った。幽霊だから当たらなかった。

 それから、ゾンビは優しく微笑み、言った。


「あーうー、あああうー、うーう”ぁーうー、あーうー、うう”ぁう”ぁ、うーあー」


 メロスは腕に唸りをつけてセリヌンティウスの頬を殴った。幽霊だから当たらなかった。


「ありがとう、友よ」という意味の言葉を2人同時に発し、抱き合おうとして透過し、それから嬉し泣きでおいおいと声を放った。

 群衆の中からも、すすり泣く声が聞こえた。暴君ディオニスは、群衆の背後から2人の様子を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに2人に近づき、顔を赤らめて、こう言った。


「お前らの望みは叶ったぞ。お前らは、わしの心に勝ったのだ。アンデッドの誠実さとは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、お前らの仲間の一人にしてほしい」


 どっと群衆の間に、歓声が起こった。


「万歳、王様万歳」


 1人の若いバンシーが、緋色のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。よき友は、気を利かせて教えてやった。


「あー、うーあーうー、あうーあー、ううあー、あうあう、ううあ、うあうあー」


「メロス、君は、真っ裸じゃないか。早くそのマントを羽織るがいい。この可愛い娘さんは、君の裸体を、皆に見られるのが、たまらなく嫌なのだ」という意味のことを言われ、勇者は、ひどく赤面した。


 その後、屍霊術王ディオニスはメロスたちの仲間となった。

 アンデッドになったのだ。

 上級アンデッドであるリッチとなった王は、アンデッドの生存権を保障し、生者と屍霊が共に暮らしやすい国を目指して善政を行った。そうしてシラクス市は世界有数の生屍共存都市リヴネクロ・インクルージョン・シティとなり、彼の在位期間は3000年にも及んだ。

 一方のメロスについて、目立った記録は後世に残されていない。しかしセリヌンティウスの作品である「死を打ち破った幽霊、破死霊メロスの像」は、今もシラクス市王立屍霊館に展示されているのであった。


 


原文:太宰治 『走れメロス』

底本:「太宰治全集3」ちくま文庫 筑摩書房

   1988年10月25日 初版発行

   1998年6月15日 第2刷

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破死霊メロス @kurororon

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