雪化粧で思い浮かべる風景、それは……

坂原 光

雪化粧で思い浮かべる風景、それは……

 いつもと変わらない道、アクセルを踏む僕の右足。そんないつもと変わらない平日の朝、十時半。その時にふと、僕の心を掴んだのは雪化粧を纏った富士山だった。


 どうしてだろうか? 思い当たる節は一つ、昨日夜中に放送していた古い日本映画で見た、主人公が銭湯に入っているシーン。当たり前みたいに、後ろの壁には富士山が描かれていた。


 なんてことのないシーンだったけれど、そういうものに限って強く心に残ることがある。それは、僕たちの人生だってそうなんだ。そしてそれは決まって、ずっと後になってから大事なものだったって、気が付くものなんだ。


 ずいぶん前に通り過ぎてしまった、僕たちの関係がそうだったように。


 いつかあそこに登ろうと約束したのは誰とだったのか? そこから、日の出を見ようと言いだしたのは僕か?


 思い出そうと思えば思い出せることなのだけれど、あえてそれをしたいとは思わない。良いとは思い難い思い出なんて大体がそんなもの。でも、不思議なもので、どんなきっかけであれ、一度思い出してしまうと、それを止めることは難しくなる。


 記憶というのはある意味、タイムマシンなんだ。もちろん僕しか乗ることができない。そこに誰かを乗せることができたら、それは相当な幸運なんだぜ。


 赤信号で止まった僕は左右のビルを見る。どこもかしこも高い建物だらけで、心躍るような景色とはとても言えない。腕時計を見るとまだ約束の時間に少し早い。


 車をコインパーキングに止める。缶コーヒーでも買って、時間を潰すとしよう。スマートフォンを自動販売機にかざしてボタンを押す。小銭がなくても買える、時代は進んでいるんだ。ガコン、とおなじみの音が響き、再び僕を過去へと連れていく。


 初めて山を意識したのはたぶん、幼稚園の頃だったと思う。茨城県に生まれた僕にとって、山といえば筑波山だった。小学校のころには何度か遠足でも行った。


 その時は特に思うところなんてなくて、ただ山に登っているというだけだった。それよりも、友達と一緒に登る、それが楽しかった。山は、いつもそこにあるもの。それだけ。


 その頃の僕は、遠くに見える山よりも、目の前にある現実がすべてだった。狭い自分の世界を広いと思いながら生きていた。そんな日々を過ごしていた僕はやがて六年になり、修学旅行に行くことになった。行き先は箱根・富士山方面、その時に初めて富士山のことを考えたんだと思う。


 行く前に授業で何度か取り上げられ、僕は次第に興味が出てきた。比べるのも失礼だと思いつつ、近くにある筑波山(もちろん筑波山だって好きだ。学校行事とはいえ何度も行っているし、いつも違う表情を見せる山。そして遠くを見るといつも視界にある山。悪い印象なんて何もない。しかし……。)とはスケールが違う。


 そんなもの、気に入るに決まっている。ところが、実際に行ってみるとただバスで五合目まで行くだけというもの。バスに乗っているだけ、感慨なんてあるわけがなかった。お土産で砂糖菓子を買って、またバスで茨城に帰っただけだった。


 それから僕は思春期というよくわからない時期に入ってしまい、自分と、自分以外の誰かと、その他のこと、半径三メートルくらいしか興味がなくなってしまった。僕の中にそれが戻ってくるのは大学生になってからだ。


 中学生から大学生、たった六年。あっという間だと思うかい? それは今から振り返るからなんだよ。ま、思い出なんてそういうものなんだよな。どんなものであれ、さ。


 都会の雑踏が僕の耳に戻ってくる。缶コーヒーを振ると残りは半分くらい、時間はまだ早い。遅れるのは論外で、早すぎても相手にとって失礼らしい。いつからこんなにいろいろなことが面倒になってしまったのかな。


 缶コーヒー飲み干して、ゴミ箱に捨てる。手持無沙汰な僕は、ビルの先にある空を見上げる。


「山に登りたいのよ。そうね、せっかく登るなら高尾山とか筑波山じゃなくて、富士山がいい。茨城から来た君には悪いけれど」

「随分唐突じゃない。どうしてまた?」


 僕たちは大学の中庭で、次の授業までの空き時間、ベンチに座っていた。東京の郊外にある小さい私立大学、学校とは思えないような大きな中庭。あれは確か大学二年の五月くらいだった気がする。


 その日は気温が高くて、半袖にするか、それとも長袖を着るか迷っていた日だった。僕は昔から好きな缶コーヒーを手に持ち、彼女はもっと洒落た、コーヒー店のカフェオレを飲んでいた。


 今から考えると、こういう小さい好みの違いっていうのは結構、大事だったりするんだよな。もちろん今から考えると、だけれど。


「どうしてって? だって日本一高い山なのよ? そこから見える景色、見てみたいじゃない。……ちゃんと、自分の目で」


 僕は彼女の言ったことを考えてみる。確かに素晴らしい風景だろう。間違いなく最高の景色を見ることはできるだろうと思う……でも。


「君はそういうのってあんまり興味がないのかな?」

 そう言われて僕は苦笑いを浮かべた。


「そういうわけでもないよ、見てみたい。それに、たった今思い出したことだけれど、僕は小学校のころ、そこに行きたくて仕方なかった。でも、今は、どうしても、というわけでもないかな」


「君は正直だね、そういうところが好きだよ。……とにかく、私は色々なところに行きたいんだ。知らない場所、見たことない風景。そこで何を思うのかを、ちゃんと確かめたいのよ」


 その場所には僕たち以外にも何人かいて、仲の良さそうな恋人同士の姿も見えた。不思議だな、あの人たちにも、二人だけの特別な空間があるのだろう。


 もちろんそれは当人たちしか見ることができず、感じることもできない。そんな空気が消えるとき、どうなってしまうのかな。それは僕たちも、なのだけれど。


 ポケットの携帯電話が鳴る。画面を見るとこれから訪問する予定の得意先からだ。電話に出ると、今日は急に会議になってしまったから明日にしてくれ、とのこと。余所行きの声で、かしこまりました、申し訳ございません、と言う。


 別にかしこまる必要なんてないし、謝る必要だってない。でも、一般論として、『物』は売る方より買う方が強い。よくあることだ。僕は車に乗り込み、エンジンをかけて、ゆっくりとアクセルを踏む。


「やっぱりね、私たち別れた方がいいと思うんだよ」

 僕たちは社会人になっていて、お互いに違う理想を追い続ける僕たちは、だんだんとすれ違うようになっていた。その結果がこうなったというわけだ。


 すべての物事には、きちんと理由がある。だからこうなったとしても、それは仕方のないことなんだ。……理屈としては。でも、感情としては、そうはいかないんだよ。


 日曜日の午後、僕と彼女は、彼女の好きな店でコーヒーを飲んでいた。日曜だというのに店は空いていて、言いたいことを言うには絶好のチャンスだった。彼女はブラックコーヒーを一口飲んだ。彼女がブラックのコーヒーを飲むのを初めて見た。


 それを目の当たりにして、人はどんな状況でも進んでいくんだ、とか、そんなことが頭に浮かんだ。僕も、缶コーヒー以外が好きになる時がくるかもしれない。


「僕はそうは思わないけれど、結論を口に出すってことは『そうしたい』ってことだよね」

「うん。申し訳ないんだけれど」

「申し訳ないなんて思うことはないよ、人生っていうのはそういうものなんだ、きっと」


 僕がそう言うと、彼女は何とも言えない目で僕を見ていたが、やがて隣の椅子に置いていた鞄を手に取り店を出て行った。これで僕は一人になった。


 少し冷めた、残ったコーヒーを飲む。そういえば、結構長く付き合ったけれど彼女が行きたいと言っていた場所には半分も行けてなかったな。北海道、紀伊半島、四国、九州、沖縄、その他もろもろ。富士山を登ることもそれに入る。


 そりゃあ振られるよな。残念と言えばそうだけれど、そういうことってのはもっと、後になってから実感することなんだろうな。例えば夜中にふと、目を覚ました時、なんかに。


 僕は自分の座っている場所から、彼女が座っていた場所を眺める。たぶん、もうこの店に来ることはないだろうな。そんな気がした。


 車は東京の街を走る。今日はまだまだ行くべきところがあって、時間を無駄にするような暇はない。


 つまり、いつもの毎日。

 やるべきこと、やりたいこと。

 僕が行きたい場所、してみたいこと。


「そうだ、来年の夏は富士山に登ろう。せっかく小学校のこととか、彼女のこととかを思い出したんだ。これだって立派な理由だ」

 僕は車の中、誰に言うでもなくそういった。たぶん、自分自身にそれを言いたかったんだと思う。


 出来ること、出来ないこと。いろいろあるが、僕は今、生きていて、やろうと思えば何だってできるんだ。


 あったかもしれない未来のことを少しだけ考えて、でもやっぱり今の続きになる未来のことを考えながら、僕は次の場所へと向かった。少しだけ軽くなった心と一緒に。

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