海の弔い
夏々
【水葬といつか花になる祈り】
海があった。
汚れ一つない、まっさらで綺麗な海が、ここにはあった。昼間は太陽の光を受けて澄んだ澄んだ青に光り、白い泡を含んだ波を立てては岩場にぶつかり、猛々しく宙に跳ね返る。不純物が長い航海をしてその砂浜に辿り着くことはない。潮の流れがそうさせていた。海そのものが、その海岸を真の意味で守っていたのだ。
陸では、沢山の血が流れている。
沢山の人間が己の為、国の為、家族の為、
誰もが正義なのだった。
ただ互いが悪なだけだった。
沢山の正義は互いの悪で互いを汚し合った。その悪は海をも汚した。清廉なむき出しの自然は、どの時代でもそうして汚れていく。世界の海が血潮と硝煙で汚染されていくなか、潮に守られたその海は唯一美しいまま、
人の死を流していた。
「いやよ」
その海は不思議で。夜になると、海水がひとりでに光りだす。空が暗い闇を浮かべると、海面も必然的に黒く染まる。しかしこの海岸は、夜が深まるにつれ、その黒い水の中から青い光を放つのだ。ブルー・ダイヤモンドに似た、極上の青の光を。自然の神秘と呼べる現象だ。何百年も前からこの海はそうだった。きっと他の海もそうだったのだろう。今はもう見ることも叶わないが、確かに海は生きていた。
「嫌だ、いかないで」
切な祈りが砂を撫ぜる。
ブロンドの髪を背中にうねらせる淑女が、砂浜に膝をついて深く俯いている。彼女は何かにすがりついていた。
「一人にしないで……」
まろい頬を涙がつたい、蓋に落ちる。木箱の蓋にはいくつもの薄暗いシミがあった。月明かりでぼんやり浮かび上がるそれは、彼女が悲しみの底に潜るたびに比例して増えていった。
「貴方は、こんな棺に入るべき人じゃないの。お願い生きて。私と生きてよ」
それは棺だ。
棺のふちが波にさらされて、流れてきた海藻が貼り付いていた。
この海岸は近くに町があり、古くから風習があった。いわゆる水葬だ。棺に遺体を入れ、海に流す。至極単純な儀式で、流された遺体はしばしの漂流の後、棺と共に朽ちて海の底に沈む。そうやって弔われてきた死者が何百といる。そして今夜もまた。
「私も、ここに沈みたいんだよ」
もう一人の声が海岸の静寂に新たな波を立てる。
棺の窓からぬっと手が伸び、泣きじゃくる淑女の頬に添えられる。淑女は赤い目で睨むように窓の中を見た。
棺の中に横たわる青年は穏やかに微笑んでみせる。
「今までに散っていった皆のように、私もここで朽ちたいんだ」
「でも、でも貴方はまだ生きてる! せっかく、生きて帰って来たのに」
「左足と左耳がもうないんだ。戦力外だから帰されたんだ。死ぬ以外に未来がないから」
「なんでそんなことを言うの。戦えないことがなに? 戦争は、貴方の価値を決めれるほど偉いものなの?」
叫びながら、彼の手を強く握った。棺の中の彼は、青色の宝石を幾億と流したような海の光を受ける彼女のブロンドの髪を、この世で一番綺麗なものを見るように眺めた。
「軍服なんて脱いでよ。そんな血なまぐさいものは脱いで。もう戦争のために生きるのはやめて!」
「戦争のためじゃない。どこより早くこの国に平和が咲くように戦ったんだ。私は種を手に入れに行って……ちゃんと仲間に託したんだよ」
青年は愛しい彼女の名を呼ぶ。波が弾ける。
「この種は芽吹くよ。必ず。時間はかかるかも知れない。けれどきっと咲く。ここの海のような美しい花が、国中に咲くんだ」
「……でも、そこに貴方はいない」
「いるさ。私を失ったことは気にしないでくれ。私の体はそこにいないかもしれないけれど、確かに君のそばにいる。なにせ私が手に入れた種なんだ。その開花を見届けないはずがない」
大粒の涙がこぼれていく。とめどなく溢れては流れ落ちるそれを、青年は一つ一つ拭った。彼の細かな傷を負った頬に、彼女は今すぐにキスをしてやりたかった。彼が戦場で見てきた地獄を、戦争の終焉を町で祈り続けた淑女は憂いずにいられなかった。
「……それでも生きていてと願うのは、いけないこと?」
一際大きな波が押し寄せて、彼女のワンピースを濡らした。潮風に長いブロンドの髪が揺れる。高く昇った月と、発光する海の青とが、彼女を照らし、成り行きを見守っている。
彼はすぐに返答しなかった。ゆっくりと腕が離れてゆき、名残惜しげに棺の中に戻される。
「……愛しているよ」
鼻をすする音が棺から聞こえた。
「あぁ、駄目だな、私は。やはり生きてここに帰って来れて良かったと思ってしまった。君に求められることが、こんなにも嬉しい」
泣きながら、笑いながら、青年は両手で顔を覆う。狭い棺の中を、片方しかない足でもがいた。
「戦争はね、何者をも救わないんだ。君にこんなことを話すべきじゃないと分かっている。けれどどうか知ってくれ。基地の上空を敵国の爆撃機が通ってね、何人もの仲間が、私の真横で肉塊となったんだよ」
「戦争で救われる人間なんていないんだ。けれどどこにでも花は咲くよ、私があの場所で見たように。必ず平和はやって来る。その時まで決して諦めないで」
「……酷なことを言うのね」
「ごめんね。私もまだ生きていたかったよ。でもほら、もう迎えが来てしまったから」
ずり、と棺が海の方へ動いた。
はっとして彼女が顔を上げると、浜辺に押し寄せる青い波が無数の青白い手となって、棺を掴み引きずって行こうとしているのだった。
「ああ、海! 待って、まだ連れていかないで!」
滑らかな手は、見た目に似合わず強い力で棺を引きずる。砂を削り、冷たい水の中へ棺は徐々に浸かっていく。……しかしゆっくりと。
「ねぇ! 私と一緒に平和を待つ未来は、本当にないの?!」
じゃぶじゃぶと波をかき分け、淑女は海面を漂う棺に追いつく。波の手は「これ以上いけない」と彼女を押し返し、ワンピースの裾を砂浜の側へ引っ張る。それでも彼女は窓の中の彼に問うた。
今度は、青年の両腕が窓から伸びる。
「私も、君と生きたいよ」
ただ私の命は永くない。君の前で衰弱し、無様に死んでいく様を君に見せたくはないのだ。分かってくれと、青年は口にはしなかった。
代わりに彼女の頬を、垂れ下がる髪ごと巻き込んで左右から包んだ。
「死んでも君を忘れないよ。忘れたくない」
「私は、貴方がいないと寂しいの。もう二度と貴方の体に触れられないなんて、考えられない」
「……それは、私もだ」
どれだけ遅い進みでも、やがて海は深くなる。淑女は太ももまで海水に浸かった。
「……今から、私は君に酷いことを言うよ。よく聞いて」
陶器のように白かった波の手が、海水と同様に青い光を帯びる。その内の幾本かが手の姿からただの水に戻っていった。
「私のことを、どうか忘れないでくれ。君のもとに平和の種が届くまで、どうか今日の日のことを覚えていて」
「ええ! 勿論よ」
「良かった。そうすれば、体はなくとも、君のそばにいられるはずだから。何度も私は君の前に立つよ。君にキスを贈るよ。たとえ肉体がなくてもね」
「ええ、ええ。私も貴方にキスをするわ。時には貴方の服を抱きしめて眠るわ。毎日花を
青年は、自分の体から体温が消えていくのを感じた。彼女の熱だけが手のひらに感じられた。
「それは嬉しいな。そうだね、あの家には私の物がいくつか残っているんだった。……最期にひとつ、我儘を言ってもいいかい」
泣く彼女が何度も頷く。
「君の──君の髪を、私のお供に連れていかせてくれないか」
「私の、髪?」
「ああ」
「勿論よ。連れていって」
「ありがとう。──愛してる、永遠に」
頬を撫ぜて青年の手が離れる。すると同時に、彼の手に絡んでいた彼女の髪がするりと落ちていった。
「あ」
痛みも違和感もなく、背中を垂れるほどあった淑女のブロンドの髪は、肩くらいの流さになっていた。
足を止めた彼女を置いて、棺は手に運ばれて遠くへ流されてゆく。鮮やかに光る海の上を滑って、青年の遺志をも宿した棺はいつかこの海の底に沈むだろう。淑女はもうそれを追わなかった。
「……私、忘れないわ!」
叫ぶ。この声が、種が、海の底から夜空の月にまで、果てには海を越えた遠い国へ届くように。
「貴方と仲間が向こうで、他国の子供たちに水を恵んでもらったこと! その子たちは戦火に焼かれて、死んでしまったこと! 貴方たちが建てた墓のことも!」
戦場で喉を枯らし、飲み水を求めた青年と仲間たちは、国境も敵味方も何も意識してなどはいない他国の子供たちに助けられた。「遊ぼう」とさえ言われたという。全て彼女が青年から聞いた話だ。その子供たちのほとんどは、青年らが所属する自国の砲撃で、翌日亡くなった。
棺は流れていく。波の手は彼を運んでいく。青年はもう何も喋らなかった。ただ胸に彼女の髪を抱いて瞼を閉じていた。呼吸の音は、海をたゆたう波の音に遮られて聞こえない。波の手が二本、棺の蓋へ伸び、ぱたんと窓を閉めた。
「……愛してる。永遠に」
あらわになった首筋を潮風が撫でる。短いブロンドの髪が揺れる。青い海に浸かりながら、淑女は囁く。青年がまいた種が芽吹き、花となって、平和をもたらす日を夢想しながら。
終/
海の弔い 夏々 @kaka_natunatu
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