第36話:神祓いの刀

 それは声というよりも音が鼓膜を震わせることで、声として認識できているだけなのだろう。

 光の集合体である男の姿に自然と涙が頬を伝い、今の現状すら遠い場所のことのように感じられる。

 まるであの日々の桜吹雪が舞う春の日のように。鳥たちの歌声に耳を傾け、暖かな木漏れ日が差し込み目を細めた時のように。


【サクヤ。私のサクヤ……】

「貴方は……本当に、ニニギ様なのですか?」

【ああ。ついに……この時が来てしまったようだ】


 光の集合体に過ぎないその影絵には人型なだけで顔は解らず、しかしその服装や持ち物は思い出のままに存在する。

 もしもこれが幻覚に過ぎないのだとしたら、私は恐らくすでにあの怪物の一部になっているということだろう。

 しかし肌で感じる風の冷たさも、頬を伝う涙が急激に失っていく熱を、心を揺さぶり続ける光景を、全てを幻だと断じるには私には出来なかった。


「この時、とは何ですか? いったい何を知っているんですか!?」

【…………】

「答えて下さい!」

【……初めて会った時からキミの姉、コノハナチルヒメは病に侵されていた】


 表情も何も分からない輝く影は言い難いのか、こちらの質問をすぐに答えてはくれなかったが渋々と影は喋りだす。


【病の原因は呪い。その所為で日に日に成長するほどに身体の内側から呪いの進行は進んでいったはずだ。皮膚は石の如く固まり、髪は変質し、意識は突然失われる。先天的な何かの素養があり、後天的に呪いを受けているのだと後々解ったのだ】

「だから姉とは結婚をしなかったというのですか?」

【そうしなければ呪いも引き受けることになる。それに、この気配でようやく解った。ほんの少しだが黄泉津大神の力が入っているようだ。生きながらに消えない苦しみを得ることになる呪いだ】

「そんな呪いが……姉に? 原因は?」

【……それは……キミだ。キミの美しさを妬んでいた者たちが沢山居たんだよ】

「そんな……」


 光の影が語る内容はあの日々の裏側に潜む闇の話だった。

 蝶よ花よと愛でられていた時期に、誰もが口に出すことはなかった事実を私はようやく知った。

 こんな事態になるまで自分が原因の一端を担っていたことに今まで気づかなかった愚かさと強制的に向き合わされる。

 姉を追い詰めていたのは自分自身。ただ一人の姉がそんなことになっていることも気づくこともなかったというのに、そんな自分が何を守ることができるのだろうか。

 雲の下に広がるのが植物に似た動物たちに全て染められていたとしたら、南の森に避難させた者たちも亡くなっているかもしれない。

 つまり、結局のところ私では何も守れていなかったのだと突きつけられた気がした。


「私は……何も守れないの?」

【……サクヤ。キミはキミの出来ることを十二分にしてきた。長い時間を戦って傷ついてきた。心も身体もボロボロになってでも。だが神の呪いを祓うにはキミの力では無理だ】

「なら、どうしたら良いと? 私の力で届かないのであればもう……」


 下から迫ってくる気配は雨雲を幾つも突き抜けて現れる樹木に似た動物たち。その触手が蠢きながら現れ、飛んでいた鳥たちを捕まえて捕食している。

 そして今は顔ぐらいしか面影を残さない姉は、その身体のほとんどを動物たちに置き換えられている。


「や■●! ■は●オ●●■!」

【……彼女もここまで堕とされたか。あの精神力だけは誰よりも美しかった彼女が】

「ニニギ様! 姉を、姉は何とか元に出来ませんかっ!?」

【出来ない。もはや彼女はそれを受け入れてここまで来てしまった。あの日……遠ざけるのではなく止めるべきだったと私も後悔している。だからこそ、もしもの場合を用意してある。あの剣ヶ峰に】

「あそこに? あそこはただの訓練場で何も……」

【否。あそこには神を祓う刀がのだ】

「埋めてっ?」

【そうだ。誰にも触れられぬようにこの国で最も高い場所に埋めたのだ。しかしあれから年月も経っている。恐らく刀も露出しているはずだ。キミなら見つけられるだろう。刀がキミを呼ぶはずだ】


 巨大になり過ぎた怪物は動くが今までよりもだいぶ遅くなっており、すぐに移動すれば目的地に辿り着くだろう。

 しかし光の集合体に過ぎないニニギ様はこの場から動くことが出来ないようで早く行くようにと急かした。


【行きなさい。私達が彼女にしてやれることは止めてあげることだけだ。例え何を犠牲にしてでも止めなければ。そうしなければ世界をも滅ぼすことになる】

「……分かり、ました。では、私は……行きますっ」

【行きなさい。私のサクヤ……】


 頭を下げて段々と近づいてくる触手が形作った拳を避けるために一目散に剣ヶ峰を目指す。

 足も手も必死に動かして、あの怪物の拳が背後を通り過ぎていくのを風圧によって理解する。

 そして砕ける地面と大きく揺れる山。先程よりも大きな揺れの原因は火口が見えるようになってようやく理解する。


「暑いわけだな。もう、噴火寸前か」


 恐らく姉を上手く祓うことが出来たとして自分の命があるとは思えない。

 溶岩の高温では身体など灰すら残さず簡単に骨まで溶けて無くなるだろう。また溶岩だけでなく火砕流の速さと高温さは到底逃げ切れるものではない。

 記憶すら無くなる熱さに身を焼かれることは私に用意された贖罪の形なのだ。

 それならば潔く死を受け入れて、私は姉と共に散ろう。

 だが今の姉の状態ではもしかしたら溶岩さえも自分の身体の一部にしてしまうかもしれない。


「……急がないと」


 背後を振り返りたい気持ちを切り捨てて、聞こえなくなったニニギ様の助言をもとに剣ヶ峰を目指して走る。

 直線で走れれば着くのは早いが、今まさに噴火しようとしている火口に飛び込むことは出来ない。

 雪化粧した細い道が少しずつ熱によって雪が溶けていくのを、注意しつつも全速力で駆け抜けていく。

 本来であればゆっくりと歩かなければ滑り落ちるほど細く、また自然の山であるが故に決して平らな歩きやすい道などない。

 また雪が溶けていくことで滑りやすく、さらには雪で隠れされている幻想の道を歩けばたちまち身体は下へと滑り落とされるだろう。

 だからこそひたすらに前を向いて走り続けるしかない。両手と両足を使って獣のように走り続けていく。

 伊豆岳、成就ケ岳だけを越えていくと追いかけるように姉の手が私を捕まえようと振り下ろされるのを影で知る。


「くっ……まだぁ!」


 逃げる道など左右にも後方にもない。ならばただ全速力を越えてでも前へと走り続けるしかない。

 呼吸がし辛い山頂で全力で身体を動かすなど常人ならば耐えられない。意識を失ってそのまま亡くなる者があとを断たないはずだ。

 生涯のほとんどを山頂で暮らしている自分でさえも辛い環境下だが、それでも必死に駆けるのは託された想いや使命だけではない。

 今までの姉から受けていたが見えていなかった優しさや深い愛情があったからだ。

 そんな姉に対して私自身は何も出来ていない。何も返せてない。感謝の言葉すら……言ってなかった。

 だから一瞬でもいい。ただ姉に感謝の言葉を言いたかった。

 自己満足でしかないと解っていても、それすら出来ない者になど成りたくなかった。

 自分が住んでいる小屋が建てられた駒ヶ岳は地震によるものか、それとも雪の重みに耐えられなくなったのか拉げて潰れているのを横目に通り過ぎる。

 不尽山が噴火すればもはや家屋など溶けて無くなるもの。今更気にすることなど何もあそこには無い。

 大切なものが詰まった里は私の目の前で崩壊したのを見ている。私に残されたものはすでに自分の命しかなく、その使い所はすでに戦端が開かれる前から決まっていたのだろう。


「私がっ、姉様を! 今度は……私がっ!」


 限界一杯に開いた五指は雪を掻きむしるように。足は溶けて柔らかくなった雪を踏み固めるように。霜焼けで赤くなる手足の痛みも気に留める余裕などなく、ただただ剣ヶ峰を目指して疾走する。

 自分のするべきことを、やるべきことを、やりたいことを、したいことを明確に見据えてその目的のために走り続ける。

 最後の剣ヶ峰に向かって続く真っ直ぐな坂に業を煮やした怪物が自らの一部を付着させた岩を投げつけて道を塞ぐが、その程度で止められるほど私は弱くはない。


「歩法技、残桜ざんおう


 それは散り残った桜のように、他者がその場に私がいると錯覚させるための歩法技術。動く速度を極端に変えることによって認識を誤認させるための技だ。

 つまり、怪物が投げた岩はすでに通り過ぎていた私の後ろに落ちていく。

 山が一段と揺れて山肌を滑り落ちる岩や雪は煮え滾る溶岩が溜め込まれた火口にも落ちていく。

 すでに噴火するまでの限界に近く、いつ噴火してもおかしくない段階になっている。

 そして結果はどうあれ、私は最期の地へと辿り着く。

 剣ヶ峰。

 不尽山で最も高いその場所で、風や雨によって砕けたり摩耗して角のように尖った岩と岩の間にそれは地面へと突き刺さっている。

 その柄はまるで太陽のように煌めき、その刃は月のように見る者を虜にするほど鋭利だった。


「あれが……ニニギ様の剣。神剣、天叢雲剣」

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