第34話:呪濁の海嘯
姉の喉に突き刺さる一刺しは確かな感触を手へと伝えてくる。
その皮は人や動物の肉とは違う硬質な鋼に似た感触ではあったが、内側は人と同じような感触だと伝えてくる。
喉から刃へと伝わる血の色は紫色に変色し、およそ他の動物たちとは一線を画すものであった。
人間や妖怪悪鬼であろうとも血の色とて違うことはない。しかし肉親である彼女はすでにその枠組みにすら入らない領域にまで堕ちてしまっていた。
喉から刃を抜いて距離をおけば、直後に喉から噴出する紫色の血が地面を濡らし雨粒と共に地面に吸い込まれていく。
「あ……」
姉の口から洩れた声はか細く消え失せ、しかし樹木に似た動物たちで出来た髪の奥に怪しく輝く赤い瞳は一層輝きを強めてこちらを見た。
それは我が姉の意思だけでなく、その身体を構成する動物たちも私が敵だと認識した所為だろう。
つまり、喉を切り裂いて血を流させても倒してなどいないということだ。
「よくも。よくも私に刃を突き立てたな……あれほど守ってやったのに……あれほど助けてやったのに……アレホド共二居ヨウと言ッタノニッ!」
姉の口から漏れてくる憎悪に満ちた怨み言に呼応するように、雨が一層強くなり地面に染み込んだ彼女の血によってさらなる動物たちが生まれて侵食範囲を広げていく。
加えて水を得ているからか、その動物たちは成長を続けて触手のついた枝葉を周囲に伸ばしていった。
ほんの少しの間に里は瞬く間に姉の手によって崩壊し、そして彼女の領域となった。
もはや今まで通りに里に住むことは出来なくなり、その枝葉は里だけでなく森にまで手を伸ばして仲間を増やしていく。
普段ならば里の狩人、守備隊によってあの動物たちを刈り取ることも出来るのだがこの戦いによって一部は壊滅。一部は南の森に避難している住民たちを守っていた。
彼らが生きていれば違う場所でも獣人たちの血は絶えることはない。この里が失くなろうとも、他の場所で生きていけるだけの力が彼らにはあるのだから。
「この森でしか生きられない私とは違う、か。羨ましい限りだ」
「アァ嗚呼……羨ましい? そう、そうよ……羨ましい妬ましい悲しい苦しい! 暗い海の底でずっと考えてた。来る日も来る日も時間の流れすら消えた場所でずっと!」
里が死ぬ。森が死ぬ。されど里や森は新たな生命体として生まれ変わる。
見た目は美しく、中身は悍ましき樹木へと変貌していく。
悍ましい樹木たちが動物である以上、あれは恐ろしい速度で行われている生殖行為に他ならない。
触れればそこに卵を産み付けて自分たちの仲間にしてしまうのだ。
「この森も、もう長くはないか……」
近づく樹木たちを切り払い、姉の動向に注意しながらも自分たちの森が壊されていくのを見るしか無い現状に歯噛みし、それでも自分のやるべきことを見失わない。
たとえ百鬼の群れであろうとも。たとえ千を超える人間たちであろうとも。たとえ膨大に増え続ける樹木に似た動物たちであろうとも。たとえそれが自分の姉であろうとも……やるべきことはひとつだけだった。
「私はあの山の護り人。永遠の守護者。何人たりとも、我が身にかけて通す訳にはいかないっ!」
「あの男……アノ男ノ所為デ……私ノサクヤがァ!」
髪を逆立てた姉の顔には幾つもの樹木だけでなく壺状の動物たちをつけ、もはや人らしさは少しだけしか残っているようには見えない。
少しずつ消えていく彼女の正気に触発されてか、理性が欠けていくほどに身体は動物たちが繁殖していく。
それはすでに姉の欠けた魂だけをこの世に残した怪物。恐ろしいほどの年月を海の底で育ててしまった怪物と成り果てていた。
どんな言葉もすでに姉には届かないだろう。そんな地点などとうの昔に過ぎていた。
斬らなければならない。
その覚悟とともに刀を構え直した時だった。
「っ!? 地震? 森が揺れている?」
ズンッ、という腹の底に響くような強い揺れが一瞬訪れてから、続いて断続的にやや強い揺れが訪れて森を大地を動かした。
しかもその強さは大きく、立っていることは出来ないほどで侵食された家屋は倒壊し、森の木々もまた根を張っているにも関わらず大地が捲れ上がって倒れるものまで現れた。
もちろん侵食された木々は軒並み倒れ、地面へとぶつかり壊れていく。
今までの数十年よりも大きな揺れに私の耳や尻尾が逆立った。
【……来たれ……】
「「呼ばれた……」」
姉妹が同時に感じたその意識。大地の揺れを通じて肌で感じたものに視線が向かう。
雨雲によって見えなくなろうとも、その雲を貫くほどの大きさを持つ山肌は今でも見えている。
不尽山。その霊峰たる山を守るのが私の使命であり全てだ。
今となっては何を守るべきなのかすら思い出せないが、それでもなお守るべきものだということだけは憶えている。
それがこの懐かしい声だ。
およそ百年ごとに、私の寿命が尽きる頃に聞こえていた声がハッキリと頭に響く。
それが山頂から感じられ、その声を思うと胸が締め付けられるほどに苦しく、動悸は奇妙なほど高鳴った。
「あの声……アノ声ぇ……!」
だがその声は祟り神と成りつつある姉の琴線に強く触れ、彼女の下半身を人の形にすることさえも忘れさせるほどのものであったらしい。
周辺の木々、建物、作物、地面から生えた樹木たちを寄り集めて自らの一部へと戻していく。
その身体は一種の大津波。全てを呑み込み、己のものとしながら前進し続ける災害として現れた。
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