第32話:鳴動する樹海

 幾つもの音が森に、大地に、鼓膜に、身体に、心に響いていた。

 森の外については分からずとも、結界が壊されてから不届き者たちが森に入ってくるのは手に取るように分かる。

 たとえ肉眼で事の顛末を見ることが叶わずとも、激闘の末にどうなったのかは結果から導き出すのは簡単だ。


「タエ……オウカ……」


 北の森に向かったタエが獣たちを従えて人間たちを蹂躙しに行ったが、人間の男たちの阿鼻叫喚の地獄絵図を作り出したはずだ。

 しかしその後、恐らく牛御前の配下と思われる何者かと戦闘になり森の中へと侵入を許してしまったらしい。

 タエ本来の実力であれば対処も出来るかもしれないが、暴れ回ったあとの疲労が蓄積した状態での戦闘では不利でしかない。

 休息のないまま自分よりも格上との戦闘にタエは不覚を取って敗北。彼女の助けに入ったオウカの奮戦により勝利を収めることが出来たが相打ちとなったようだ。

 彼女たち二人を相手取った敵側の者も余程の実力者だったに違いない。


「クロ……」


 西の森での激闘。

 アクタとクロがによって彼女たちが支配する森は隅から隅まで監視され、また今回の襲撃に備えて南の森に里の者たちと共に避難しているシロの手によって様々な罠が仕掛けられている。

 西の森に関してはそのほとんどの罠が人から見れば致死性の高いものばかりだ。

 動物の足を絡め取る足括りの罠は首を括るものに変えられ、鳴子のつけられた侵入を知らせる糸は仕掛け弓へと繋がれている。

 足下には巧妙に隠された尖った動物たち骨や廃棄した槍や刀で落ちた者を串刺しにする落とし穴が用意されていた。

 しかし、そのほとんどを侵入者たちの手によって壊されていた。

 手下の人間たちを脅して進ませ、罠へと先にかからせながら突き進む妖魔は人間たちを失った頃にアクタとクロによって進行を止められた。

 その後、西の森と他の森を隔てるように設置されていた巨木や巨岩などが打ち上げられて西の森に落下していくのを見た。

 北と南から打ち上げられた物は上空でぶつかり、そのまま真下の西の森を蹂躙していく音は恐らく他の森で闘う者にも聞こえたことだろう。

 恐らくその下にいた者の命は絶望的だろう。


「カラ……アクタ……」


 そして本命である東の森による死闘。

 伝令役であるカラが戻って来ないことを考えると何らかの襲撃にあったと考えるべきだろう。

 しかし慎重な彼女が人間相手に隙を突かれるとは考え難いとなると、考えたくはないが仲間同士での戦いがあったのかもしれない。

 数の理は時に質という側面からの戦力差を見え難くさせる。しかし広大な森の中を彷徨いながら行軍するなど数の理を活かせる訳がないのに。

 カラの生死は不明だが、東の森に一目散に飛んでいったアクタの若返った姿を見たとき、その表情から察するに東の森側に何がいたのかも解った。

 牛御前。

 今回の戦端を開くことになった切っ掛けにして、アクタの最も忌まわしき因縁の相手が現れたことを示している。

 その後の森は最も騒がしく鳴動し、森の動物たちが慌てて逃げ出し、木々が吹き飛び地面は剥がれるように舞い上がった。

 現場は目にするまでもなく酷い惨状となっているのは間違いなく、またその場所にいた者がいるならば形すら失うことになるだろう。

 それほどの激しい戦闘さえも過ぎ去り、森に一瞬の静寂の時間が流れていた。

 里の中だけ見れば誰もいないため喧騒すら無い真夜中のよう。鳥たちさえも寝静まった深夜の如き静寂にも似た時間が過ぎていく。


「……来る……」


 腰帯に差した刀に触れれば付けた鈴がチリンと鳴る。

 東の森に入ってきた邪悪かつ濃厚な気配はゆっくりと動き出していた。


「サクヤさん……ウイは、もう……」


 里に設置された大本の要石には幾つもの罅割れによって、その上で結界の維持に努めて迷いの霧を発生させていたウイは今にも消えそうな蝋燭の火にも似ている。

 いや、まるで本当はそこにはない陽炎のような不確かな存在感しかなかった。


「ああ……お前はよくやった。充分過ぎるほどだ」

「え、へへ……サクヤさんに褒められるなんて……夢みたい」

「大袈裟な奴だ。お前の努力をずっと見てきたのは間違いなく私だ。いずれどこかに祀ってやろう。宇治の姫よ」

「は、い……いず、れ……」


 ゆらゆらと、風に吹かれると散っていく砂埃のようにウイの身体は消えてゆく。

 崩れてゆく輪郭が最後に残したのは頬を流れる一粒の光であり、その粒子は風に舞って消えて無くなった。

 岩ほどの大きさを持つ要石は砕けて崩壊し、それと同じくして森中に広がっていた霧が少しずつ晴れていく。

 明朝であれば津波のように襲いかかってきたであろう人の波はすでに引き潮。もはや万単位で居たはずの人間たちの大半は恐怖によって逃げ出している。

 いや、牛御前という凶悪の女であれば逃げ出した者もただでは済ましてはいないだろう。


「雨、か」


 大地を覆っていた霧が天へと昇ったのか。ふと空を見上げれば上空に分厚い雨雲が滞留して雨を降らし始める。

 身体を濡らしていく雨は森で起きた惨劇を悲しむために降っているのかと思えたが、東の森の中をズルズルと、這いずる音をさせながら近づいてくる者がいるのを知っていればそうは思わないだろう。


「因果は巡るもの―――」


 姿が未だ見えずとも、その音が近づいてくるほどに鼓動は早まっていく。

 それは緊張とは違う不思議な感覚だった。

 頭の中に怒りはなく、悲しみもなく、苦しみもなく、悔しさもなく、驚きもない。

 それをどう言葉として表現するべきかも難しい。

 旅をしたことのない者がいうべき言葉ではないが、まるで郷愁に駆られる旅人が段々と近づいてくる故郷へと心を躍らせるものに近いのかもしれない。


「―――どれほどの年月を経ようとも。どれだけの死と誕生を繰り返そうとも。命と共に因果も巡り続ける、か」


 腰帯から鞘ごと刀を抜き、そして鞘からゆっくりと刀を抜いていく。

 刃を濡らしていく雨が滑り落ちて鞘の内部へと消えていくが、刀身が露になればもはや戻ることのない刃の故郷を放り捨てた。

 泥濘んだ地面を付けたままの鈴が鳴らしながら鞘は転がっていく。

 刀を両手で握ることなく、抜いたままダラリと腕を下げて相手を待った。


「アァ……見ツケタ」


 泥濘んだ地面に鴉のような羽をつけた脚だけの物を引き摺り続けた女の姿は右半身の大部分を失っていた。

 着飾っていた衣服は襤褸切れ同然となり、端正だった顔は以前の輝きを見る影だけ残し、均整の取れていた半壊した身体には枝や刃が刺さっている。

 本来であれば妖魔といえど生きてはいまい。そう思えるほどに牛御前は壊れていた。

 それでもなお生きているのは執念だけでは無理だ。

 その身体を動かす何者かが他に存在するから動けるのだ。


「まずは死ね、牛御前」


 瞬時に走り寄って女の首を断つ。

 祓の刀による一閃は牛御前の首を容易く地面へと落とした。

 中身を曝け出している頭は転がることもなく、また泥濘んだ地面によって残った小綺麗な顔は完全に輝きを失った。

 しかし頭部を失った胴体は倒れることなく蠢き、上半身が内側から膨張していく。

 嫌な予感に身体は危機を察知し、膨れ上がっていく女の身体から全力で離れる。

 そして充分な距離を開けた頃に……女の身体は破裂した。

 飛散する肉片と血液が雨に混ざり、地上や里の家や柵に付着する。

 すると血や肉が付着した箇所から奇妙な物が生え始める。

 それは女の残った下半身、腰の部分からも同じ物が生えているのを見た。

 本来であれば地上でそれを見ることはない。

 色も形も違えども、その全てが同じ種であることを誰が信じられるだろう。

 そもそも一見してみればそれは植物のように見えるが、それが動物であることを誰が知るだろう。

 急成長をし続ける色鮮やかな樹木のような、石のような動物たちが生えていき、女の残りの身体を食い潰して新たな形へと成形していった。

 光も差さない海底の闇の如き黒い髪。血のように赤い瞳が成形され直した身体を覆い隠す髪の間から垣間見える。

 襤褸切れ同然の着物は鮮やかな樹木の着物に変貌していき、それが立つ足下にも同質の命が咲いていく。


「ヨウヤク、此処マで……来れた」


 形が完全に整うと、その声はあの日の輪郭すらぼやけた過去へと思い出す。

 それは決して人間にも獣人にも妖怪悪鬼の類でさえ敵わぬ色鮮やかな純度の復讐心。

 本来目に見えぬはずの心の中身が形として溢れ出すほどの呪いによって彼女はこの地に降り立った。

 永遠に変わらず成長し続ける者。されどその成長は他者を散らし続けることでしか育めぬ者。

 永遠の成長を約束する殺神者。

 ただその一身で神の呪いを受け続けたが故にそう成ってしまった者。


「サクヤ……ワタシの妹……」

「チルねえ様」


 呪いによってその身を堕としてしまった姉、コノハナノチルヒメの姿が眼前に現れた。

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