第25話:血に飢えた者
アキの遺体を埋葬し、広場に集まったのが数時間前のこと。
すでに太陽が顔を出して空へと昇っている。
森全体に広がる静けさは風さえ吹かない所為で、生き物すら居ないのかと勘ぐらせる。
「サクヤ様。奴らが動き出しました」
今までとは違うカラの表情は任務についた時と同じく、もはや彼女の中で幼い自分と決別していったのを察する。
もちろんそれはカラだけでなく、この里に住む全ての者たちがそうであり、覚悟を決めてここに残っている。
子供たちの姿は里にはない。彼らが守るべきものは戦場にはないからだ。
「タエは?」
「すでに持ち場へと着いています」
「……分かった。カラも持ち場に戻ってくれ」
「はっ」
カラは一瞬で森の中へと消えていき、その小さな身体はすぐに森へと紛れてしまう。
人間の目では捉えることなど出来ないが、それでも油断など彼女にも無い。
すでに里には自分以外に誰の姿もない。大人や残った狩人は森に散り、戦いに不向きな者は南の洞窟に避難している。
「この森とはもう……何百年もの付き合いになるな……」
東の森へと続く封鎖された道を見る。
里の周辺にある木々は枝打ちされ、木材として使いやすくするために手は入れてあるが、中へと踏み込んでいけばそこは自然界。
動物たちが住み、植物が生え、また喰らい合う弱肉強食の世界だ。
そして誰もいない里を振り返れば、そこにもまた思い出はある。数日前まで誰もが自然と共に生きる時間を分かち合っていたのだから。
だがそれも、恐らく今日で別れを告げることになるだろうと、心と頭の何処かで察している。
「質と数の勝負……それだけなら充分に勝てたのにな」
人間たちが万の軍となったところで森の中に侵入するなら鏖殺することも出来る。
しかし相手に牛御前とその配下がいることは、アキの最期の情報によって確証となった。
その情報だけでも有益かつ対策とて取れただろう。それでもアキは戦い相打ちとなってしまった。
埋葬した直後に一匹の大きな鴉が降り立っては果物を置いてすぐに飛び立った。
恐らくすでにアクタのほうには伝わっていたのだろうが、こちらにあの一家の者たちの姿は見ない。
すでに臨戦態勢としてどこかに配置されているのだと思うが、彼女たちがどこにいるのかはこちらでも把握はしていない。
ただこの森の中に潜み、獲物が自分たちの領域に踏み込んでくるのを待っているのだ。
彼女たちには彼女たちの戦いがある。それを邪魔する気はなかった。
「……そろそろか」
今まで吹かなかった風が里の中に入り込んで木々を揺らしていく。それは自然から送られる最初の報せだったのか。
風が通り過ぎたあとに、静寂を射抜くのは笛のように鳴り響く一本の矢。戦いへと導く通告に、誰もが心に住まわせる獣に目を覚めさせる。
血を求めるのが鬼だけの特徴ではないことを、思い知らせる時が来たのだ。
――――――――――――
【タエ】
青い空に浮かぶ雲が割れていく。
今まで少しも吹きもしなかった風が吹き、隣で引き絞られた弦から放たれた鏑矢が空へと舞うのを見ていた。
これで誰も彼もが敵が来たことを理解し、警戒を一層強めることだろう。
「おいおい、獣人どもが二人だけで何の用だ?」
「まさか。その人数で俺たちを足止めできるとでも思ってる訳じゃねぇよな?」
「一人は野郎みたいだが……そっちの女は俺たちの遊び相手か? 全員を満足させられたら帰ってもいいけどなっ?」
「二千人近くはいるが獣人女なら持つか? 前に捕まえた奴は五十だか六十人ぐらい相手にしたら壊れちまいやがったからな。今度は丁寧に可愛がってやるよ!」
北の森へと続く踏み均された道には埋め尽くすほどの人間たちの姿があった。
林の中に姿を隠す者もいるようだが、人間の男たちの顔や視線は下卑たもの。私の顔や身体を舐め回すように見る視線の数々は、奴らの未来を刈り取るにはすでに充分すぎていた。
「……私はサクヤ様ほど優しくない」
「あぁ? なんだ、サクヤ様だぁ? それも女だってなら俺らを接待して貰うか!」
「俺たち人間様が優しく扱ってやるよ!」
「そうだな……毎日二十人か三十人とぎゃっ!?」
下世話な話をしていた男の一人の顔が消し飛ぶ。
頭の中身が血と共に周囲に飛び散り、さらに密集していた所為で後ろに控えていた何名かも死んだ。
その原因は私が手に持っていた、ここに来るまでに拾っていた石だった。
少しだけ力を込めて放った手のひら大の石は男の頭を吹き飛ばすだけでは終わらかったが、どうせ全て滅ぼす予定なので問題にはならない。
「私は……貴方達に道を決めさせない。ここに来た以上は後にも先にも行かせない」
「て、手前ぇ! 人間様に楯突く気ごっ!?」
刀を抜こうとした男の頭には隣から放たれた矢が突き刺さり、眼球を食い破り脳を切り裂いた。
狩人の男は喋る気さえすでに無く、ただ殺し合いが始まるのを待っていたに過ぎない。
「ひっ」
男たちは森の中からゆっくりと姿を見せた獣を見て小さく悲鳴をあげた。
北の森は前まで全域に分布していた動物たちを集めた場所となっている。それはこの森の広さを考えれば明らかに小さな場所だ。
そんな場所に押し込められた獣は苛烈な生存競争を求められるが、全ての獣がそこに適応できるはずもない。
だからこそ北の森を里から真っ直ぐに横断する際に、幾つか声をかけてここまで来ていた。
腹を空かせたその獣は口から涎を垂らし、鼻息は荒く、その目は爛々と獲物を見定めていた。
その身体は茶色の毛皮に包まれており、横幅は巨木のような広く、立ち上がった高さは若木のように大きい。
東の森の前で死んだ人間の肉を与えたことで、肉の味を憶えた彼らの前ではご馳走が列をなしているようにしか見えないだろう。
「「「グルルル……」」」
僅か一人の肉を分け合った彼らの腹は未だ満たせれてはいない。
しかも今は活きの良い肉たちが目の前に広がっていることで、すでに理性は溶け始めていた。
「お、おい……どうして、こんなに熊が」
「お前たちに私が求めるものは死だけだ。必死に逃げるか、確実に死ぬか」
手に持った大太刀を鞘から引き抜く。もはや心の中にあった何かが砕け散っていて、目の前に居る人間たちに砂粒程度の慈悲さえも湧かない。
僅か二千という餌の数では、この森の獣たちの腹を満たすことは出来ないだろう。
「逃げても追いかけて殺す。どこまでも……何処マデモ……追い掛けて殺る」
外に出てきた熊たちと熊獣人の私の根底にあって共通するもの。それは執念深く獲物を追いかける習性だった。
たとえ林の中に逃げ込もうとも草木を搔き分けて追い詰めて仕留めてみせる。
カランと手から落ちるのは大太刀の鞘。
鬼の首をも刎ね飛ばす大太刀は日の光を浴びて、その輝きを見る彼らの命をこれから奪うことを彼ら自身に知らしめる。
「それでは……死んでくださいませ」
刀を上段へと構えて地面を割るほどの踏み込みと、林に隠れていた弓兵たちを噛み千切りながら現れたさらなる熊たちと共に人間たちの隊列へと流れ込んだ。
―――――――――
【クロ】
西の森に何者かが侵入したことを鴉たちが騒いで教えてくれる。
彼らは言葉こそ失ったものの知能は高く、母が教えれば彼らは皆協力してくれた。
同時に森全体に現れ始めた霧は、少しずつ濃くなっていき侵入者の視覚と方向感覚を奪う魔性の霧となっていく。
「母様……来ました」
「ああ」
聞き漏らしてしまいそうなほど小さな声だったのに、その短い言葉に込められた迫力は里の子供が泣くほどの恐ろしさがあった。
西の森にぽつんと建てられた我が家は、サクヤ様の口利きによって当時の里の者たちによって建てられたらしい。
昔のことを語らない母から聞けたことはないが、サクヤ様は長きに渡る里の生き字引だ。教えを請えば様々なことを教えてくれる。
文字や言葉使いとて、里の子供たちに混じって教えて貰ったのを憶えている。
なにより獣人とはまた少し違う、妖魔の血が入っている私達姉妹にも別け隔てなく接してくれた。
それは当時一緒に学んでいた知人たちもだ。
「…………」
「……ふん」
庭の隅に置かれた小さな山に小さな火が揺らめく線香を見ていると、母は一瞬だけ私の顔を見てどこか不満げな顔で鼻を鳴らす。
そんな母の態度を不思議に感じた。
母はどこまでも冷酷で憎しみに支配されている人だ。
そんな母が私が供えた線香に反応したのは、珍しいとすら表現出来なほどに不思議だった。
「どうか……されましたか?」
「半人半魔故か。誰かを悼むとは……」
「親しい人が、亡くなれば……悼むのは、当然……では?」
「どうでもいい」
私の質問に答える気はないらしく、母は手に持った杖をつきながら歩き出した。
庭の外、騒がしくなった西の森からは遠い場所から響いてくるのは何かがぶつかる衝撃音。
恐らく巨木を使った振り子の罠を突破した音だろうと察し、相手の大体の位置を把握していく。
幾つかの罠は音によって罠にかかった相手がどこに居るのかを突き止められるようにしている。
これは里側にも同じ工夫が設けられており、里の子供が興味本位で入ってしまった場合の対処だったが敵の方面には殺意と共に同じ工夫を設けていた。
それに加えて母には鴉たちがいる。敵の居場所が分からなくなることはない。
「行くよ」
「……はい」
家を出ればそこは戦場。いや、侵入された以上はすでに西の森は戦場だった。
妹のオウカもすでに西の森のどこかに潜んでいるだろうし、シロは東の森の罠の敷設が終わってから南の森へと避難している。
母もシロが避難することに何も言わなかったことから反対では無かったのだろう。
すでにシロがやるべきことは終わっているから、興味が無かったのかもしれないが。
黙々と森の中を歩いていく。ゆっくりとだが着実に敵へと近づいていく。
この森に侵入された以上、ウイさんが張っている西の森の結界は破られ、西側はすでに役に立ってはいないのだろう。
そのための対応策としての霧も人間たちには効果的だ。
しかし、それが妖魔の類いであればその効果は如何ほどなのか。
しかも相手にも罠を見破れるほどの専門家が居た場合は、ウイさんの霧が無ければ足止めにもならなかったのではないかと思う。
「あぁん? 誰だ、お前らは? 俺たちの下っ端じゃねぇようだが?」
「ほうほうほう。
馬の頭と巨躯を持つ男と、
人間と妖魔の混ざった死者をゴミのように投げ捨てて、彼らはこちらを見る。
「年寄りと混ざり者の女か。何だぁ? 里まで道案内でもしてくれんのか?」
「貴方達を……通す訳に、いきません」
怒りに満ち溢れて言葉を発さない母に成り代わり彼らに告げる。
出会ってしまった以上は殺し合うことが大前提であり、背後から襲撃することも考えたがそれでは母の殺意は最悪の場合彼らだけに留まらない。
母の殺意を成就させるには、彼ら妖魔の全滅が不可避だ。
「年寄りに用はねぇ。肉もねぇし萎えるだけだ。そこの女は立ち塞がるってんなら躾けてやるよ」
「……この服に、見覚えは?」
「ほうほうほう。古い物ですが上等なお召し物ですな。私には見覚えなどありませんが」
「もっけに見覚えがねぇなら俺が分かるはずもねぇな。高ぇ物ならひん剥いて
彼らの返答に、もはや母の怒りは我慢が出来ないほどに猛り狂っていた。
鴉たちが一斉に鳴き出したかと思えば飛び立ち、周囲を飛び回る。
「そうか……」
母の呟いた声が威勢の良い男たちの嘲笑い声を掻き消し、鴉たちが母の身体を隠すように舞い降りる。
老境に達した母は、本来であれば人の身として天寿を全うできたはずだった。
しかし、それは牛御前の謀略によってその身を穢された。
幾重にも折り重なっていく妖魔の男たちによる情欲の坩堝の中で過ごし、そして生還した母は怒りと怨みを残してこれまで生きてきた。
その怒りと怨みを植え付けた者たちからも忘れられた母の感情は、すでに人としての形を留めることさえ出来なかった。
鴉たちが一斉に鳴き、姿を隠していた母に取り込まれていく。
鴉たちの絶命の一声は耳から入り頭に残留する。その怨みや憎しみは全ての鴉に共有されるがその強さは母の怨みに勝ることはない。
絶命した鴉たちの怨みや憎しみは母に溶け、そして混ざり合っていく。
そして、母は新たな姿をその場の者たちに見せる。
若々しく、されど禍々しく。鴉の羽によって編まれた服と背中から生えた鴉の翼。
まるでそれは怨みと憎しみに支配されてしまった天狗のように見えた。
「なら、死ネ」
母が無造作に振った手から突風と鎌鼬が生み出され、男たちへと襲いかかった。
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