第24話:秋雨、前線へ
それは、陽が昇る頃のことだった。
普段の寝静まった夜の森の中では獣たちの声などは聞こえないが、昨日の夜はアキたちの夜襲によって森は騒がしかった。
離れた場所とはいえ、森の中心近くに位置する里にも影響が届くほどなのだから手加減なくアキたち夜襲班が暴れていたのは間違いなかった。
「アキちゃんたち……大丈夫でしょうか?」
アキと長い時間を過ごしているタエが静かに、里の中心の広場に設置された本拠地で不安そうに尋ねてくる。
アキが私の言ったことを無視することも反故することも今まで無かったことを考えれば、タエの不安は里の全員が共有していることだった。
何故なら、夜が明ける前には戻る手筈のアキたちが戻って来なかったのだから。
「……この森にまで戻ってくれればウイがすぐに見つける」
「でも森に戻って来なければウイさんでも」
「ああ。しかし……我々は信じて待つしかないんだ。カラも外から戻ってきていない。だが鏑矢も放たれていない。それに昨日の森の騒々しさはアキの夜襲の影響と考えれば夜襲には成功しているのだろう」
「なら……夜襲後に、何かが遭ったということですか?」
不安そうに胸の前で手を握り締めるタエの表情を見つめ、何も言うことはできずに無言で首を振るだけに留める。
現状は何一つとして分からない。そのため無意味に不安を掻き立てることはしたくなかった。
ただ信じて待つしかない私たちに、その悲しい報せを届けに来たのが森を掻き分けてやってきたウイに誘導されて姿を見せたカラだった。
「カラ! アキ!」
その姿を視認した瞬間に、誰もが一斉に駆け寄った。
小柄な身体を大量の深紅に染め、その顔をぐしゃぐしゃに涙と苦悶に歪めている。
それは、その背に背負って肩に顔面蒼白の顔を力なく乗せているアキの姿があったからだ。
「アキちゃんが……アキちゃんがぁ……」
カラは背中までも血に染めてここまで来たが、すでに体力は限界だったのだろう。泣きながらアキの身体を渡す力もなく膝から崩れ落ちるのを抱き留める。
そしてその際に見えたアキの身体には右腕は無く、左手も腰布を赤黒く染めて欠損している壮絶な姿だった。
里の者たちが息を呑む姿に、タエはカラの背からアキを引き剥がしてその腕に抱く。
「アキちゃん! しっかりしてっ!? アキちゃん!」
普段は力強く立っているアキの耳や尻尾も力なく、タエの呼び掛けに答える意識も失っている。
泣きじゃくるカラを里の者に任せ、タエの腕に抱かれているアキに声をかけながら、今では白くなってしまった色艶の良かった頬を撫でる。
「アキ……」
「さくや、さまぁ?」
それは最後に残った奇蹟の残り香だったのかもしれない。
アキの唇が少しだけ動き、重たげな瞼が開き光の無い瞳がゆらゆらと動く。
焦点の合わない瞳には何も捉えることは出来ないが、僅かに残ったほんの少しの時間を起こしてくれたのだ。
「アキちゃん!? アキちゃんアキちゃん!?」
「たえ……? どこに……いるのぉ?」
「ここだよっ!? 近くにいる! 近くにいるよっ!」
「そっかぁ……わたしねぇ……敵を、強いのぉ……蛇みたいなやつ、倒したんだぁ」
「うんっ! うんっ! 分かったよ! もう大丈夫だよっ!」
大粒の涙を絶え間なく長し続けるタエの姿は、アキが物心つく前に亡くした両親の代わりを長く務めていたからこそ悲しみも人一倍にあった。
本当の姉妹にも思えるほどに近しく、大切な友人であり母親代わりにもなっていた関係性を一言で纏めることは決して出来ない。
彼女たちが育んできた時間を、その濃密な関係性を、正しく説明できることを本人たちでさえ出来やしないのだから。
ただその悲しみに心を刻まれ続ける姿を阻むことは里の者たちには出来なかった。残された時間は、もう僅かしかないと察してしまったから。
「みん、なの……かたき、とったんだよ……さくやさま、ほめて、くれるかなぁ?」
勢いよく顔を上げたタエの表情は見たことのないほどにボロボロだった。これほどまでに悲しんだ顔を見たのはいつの頃だったか。
彼女の母親が病に倒れ伏した時か、それとも彼女の父が森の主に襲われそうだった幼いタエを救って亡くなった時か。
強くならなければなかったタエの顔がこれほどまでに年相応の顔を見せるのは、いったいどれほど前のことだというのか。
「……サクヤ、様ぁ」
「解ってる」
タエの震える腕からアキを渡されると、その軽さに表情には出さなかったが驚いていた。
だがそれもアキの失ったものを考えれば、彼女の重さはすでにいつ消えてしまったとしても不思議ではない。
「アキ、私はここにいるよ」
「さくやさまのにおい……はるみたいなにおいだぁ……」
「お前はいつも、そう言うんだな」
「このにおい、すき……さくらがまって……きれい……」
アキの意識は少しずつ遠いいつかに旅だとうとしていた。
その顔は穏やかで、壮絶な死闘を演じてきたアキにとって安らげる場所ならば、きっと……良いことなのだろう。
「アキ。よく、頑張ったな」
タエの涙で濡れた髪先を丁寧に払い除け、その小さな額に唇を落とすとアキは力なく笑ってから息を……引き取った。
言葉として形になることはなかったが最期に、アキの唇は「ありがとう」だけを残して亡くなった。
途端に重くなるアキの身体。彼女自身では永遠に支えられなくなった軽やかな重みは里の者の心へと落ちていく。
そして誰かが、最初に声をあげて泣き出せば、もはや堪えることなど出来る訳がなかった。
里の大人たちは静かに、仲の良かった子供たちは大人たちに縋りついて泣いた。
燃えるような朝焼けに消えゆく命を見送る。
アキのために泣く者たちの雨が地面に落ちていく。いつか止むとしても、その雨が消えることはない。
「アキ……ほんとうに、よく頑張った……」
アキという少女の死が齎したのは確かな戦果。彼女は役目を果たし、恐らく牛御前の配下をも討ち倒した。
その犠牲はアキを含めて多く出たが、強大な敵の戦力を削ったことは褒め称えるべきことだ。
それ以外にしてやれることはないとするならば、なおのをこと精一杯褒めるべきだと思う。
血を失ったアキの身体は冷たく重い。その重みも冷たさもいつかは土に還るのだとしても、それを無価値や無意味だという者がいれば誰であろうと叩き斬ることだろう。
「……ユルサナイ……」
その大地よりも深い場所から聞こえてくるような、まるで洞穴から吹く風が怪物の声にも似るような暗い声が最初は誰が放ったのか分からなかった。
だが、声をあげて泣く子供の声も、心を埋め尽くす悲しみに暮れる者にも全てに等しく響いた声がまるで水面に広がる波紋のように里の者たちに届く。
そしてその言葉を言った者、タエに自然と全員の視線が向いた。
「タエ?」
「許さない。絶対に、許せない。アキちゃんの命を奪った奴らを、一人たりとも許さないっ!」
立ち上がった彼女の瞳に映るのは亡くなったアキの姿だったが、その瞳には暗い炎が燃え広がりアキの姿を掻き消した。
それは静かに燃え上がる大火。タエという篝火の火の粉が周囲の者たちを焚き付け燃え広がっていく。
大人も子供も涙を拭わせ、その瞳に活力の火を植え込んでいく。
その手を強く握り締めさせ、顔を上げさせるだけに留まらない炎は里の者たちに伝播していく。
「そうだ……こんな酷ぇことをしやがる奴ら、許しておけねぇっ!」
「家の娘も帰って来てないよっ。奴らにやられたんだっ! 許せるはずがないっ!」
「僕の兄ちゃんも帰って来ないっ! あいつらの所為でっ!」
誰も彼もが口々に怒りを見せる。
大人も子供も関係なく、ただ失われた命に想いを馳せて握り締めた拳に想いを乗せた。
「皆まで……」
「サクヤ様、私たちは負けられません。絶対に勝たなければなりません。奴らの好き勝手にさせる訳にはいきませんっ!」
「そうですっ! 奴らに奪われるなんてご免です! 俺たちは戦うっ!」
「そうだよっ! 僕らだって戦えるっ! 兄ちゃんの仇を取るんだ!」
全員に宿った灯火は決して小さな灯篭で燃えるような火ではなく、全員がそれぞれ木を組んだ篝火のように火を与え合ってさらなる大火へと燃え広がっていた。
たったひとつの意志に統一されていく光景は、信仰にも似た戦場の狂気が彼らへと降りかかって吞み込まれていく。
それを止める術はもはやない。だが、ただ吶喊して屍を晒す愚を犯させる訳にはいかない。
「……心意気は解った。私も、同じ気持ちだ。だが策もなく奴らを殺せるはずもない。お前たちはアキを埋葬し、広場に集まってくれ。我々は……勝たねばならん」
アキを抱えたまま立ち上がり、私は涙を流しながらも顔を上げた者たちの顔を見る。
その瞳に迷いはない。アキの遺体を受け取ったタエの後ろ姿を見ながら、私はこの戦いに勝つための覚悟を新たにして広場へと向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます