第15話:アクタの過去

 平安の世は決してその名前通りの世の中はではない。

 あちこちに幾つもの火種はあり、出世のために裕福な人族は裏切りや粛清を行い、妖魔や魑魅魍魎たちは山や村だけでなく都にも紛れていた。

 急激に発展を遂げれば都は活気に色付くが、反対にその発展に置いて行かれた者や犠牲となった者もまた多い。

 そして、当時の彼女アクタ奴婢ぬひの親から生まれた少女だった。

 ボロボロになった布地の切れ端を縫い合わせた着物を着て、親と共に村の耕作を手伝う日々に不満も充足感もなく、朝になれば日が昇るように当たり前の日々を過ごしていた。

 彼女に転機が訪れてしまったのは父親が足に怪我をし、都に届ける稲を運べなくなったことから始まった。


「なら私たちが持っていくわ。アクタと一緒なら何とか運べるでしょう」


 彼女の母はそう言って主に自分たちが代わりに持っていく許可を何とか手に入れてくれた。

 翌朝に何台もの荷車を押す中に彼女たちの姿はあった。牛が居れば簡単な道も手押しで進むのは大変で、誰もがその手の平を赤く染めていく。

 ほとんど休むことなく三日程かけて都に到着した際には、父がどれほど大変な仕事をしていたのかと心身ともに理解して疲れ果てた頃だった。

 荷物の受け取りを商家の者と奴婢頭が行っている頃に、初めて入った都に幼いアクタは圧倒されていた。

 自分の知っていた世界が恐ろしいほど狭く、あまりにも小さく、どうしようもないほど自分には縁のない世界に感じられた。

 店の裏手からでも目抜き通りの喧騒は聞こえ、目に飛び込んでくる世界は彼女の知っている世界とは明らかに違っている。

 野盗や野犬、妖魔が跋扈する世界ではなく、悪戯に誰かが敵意を振り撒く世界ではない。人々の顔は浮かれているかのように笑顔が多く、着ている服も綺麗で髪も綺麗にされている。栄華という言葉を知らずとも、世界の中心だと幼子でも納得できるほどの場所だった。

 当時の彼女には知る由もないことだが、産まれた場所が違うだけで生涯を決められる世の中に何とも言えない感情を彼女は呑み込んだ。

 都と自分たちの差がかけ離れていて、まさに別の世界に迷い込んだかのよう。

 幼いながらも今まで感じたことのない所為で例えようもない胸のざわめきや暗い感情が幼い心に芽生え始めた頃だった。


「おや……良い女子おなごが居るではないか?」


 一台の牛車が眼の前に止まり、屋形から見える女が声をかけてきた。

 すだれから見える姿はハッキリとしないが花柄の豪奢な着物を着た麗人であった。

 美しく清流のように流れる黒い髪や屋形の床を満たす着物、顔を隠す雅な扇や立派な鎧を身に纏って彼女を守る周囲の武士たちからも、学の無い子供でも分かるほどにその女性が高貴な身分なのだと察することが出来た。

 冷たい武士たちの視線が奴婢たちに刺さり、母たちが急いで膝をつけて頭を下げ、アクタも母の手によって同じように頭を下げさせられた。

 額についた地面の感触や、絶対に子供の力では引き剥がせない後頭部の母の手の力を感じながら自分に浴びせられる視線に言い様もない嫌悪感を抱いていた。


「良い良い。面を上げよ。そなたの可愛い顔を見せておくれ?」


 そんな一聴いっちょうすれば優しげな雰囲気を醸し出す猫撫で声に母の手は緩まり、幼いアクタでも簡単に振り解くことが出来た。

 顔を上げれば武士たちの鋭い視線の中で、屋形のすだれを上げてこちらを見る女の顔が見える。

 整った輪郭。優しげな微笑みを浮かべる口角。綺麗に揃えられた眉。日に晒されたことの無さそうな白い肌。朝日のように輝く瞳。後ろで編んでもなお床へと垂れる長く艷やかな黒髪。

 自分アクタと同じ位の歳でありながらそれは美しく高貴で、艶やかで、されど隠しきれない人間らしさ捨てたような不気味さを持った女だった。

 アクタに興味を持った彼女の名は【牛御前】と名乗り、幼いアクタは気づかなかったが周囲の武士たちは背後からの牛御前の声に恐怖で身を固めていた。

 腰に佩いた刀に手をかけたまま、アクタたちを見据える武士たちの中から牛御前は父の命により数日後には東国へと向かわなければならないという。

 その際に必要な物を買い揃えるために移動をしていた所でアクタを見て止まったという。


「その方は見たところ奴婢であろう? どうじゃ、私に仕える気はないか?」

「ご、御前様!? そのようなことは」

「私に、何か、意見でも?」


 思わず口を出してしまった武士の一人が彼女の微笑みと共に発せられた言葉に押し黙る。

 高貴な身分の者に会う機会など生涯ないアクタたちには解らなかったが、武士たちの間に奔る緊張は意図せずして震えた手や恐怖によって引いた血の気が冷静さを強引に取り戻させた。

 黙った武士たちを差し置き、話かけられたアクタは話を呑み込めないまま続けられる言葉を聞くだけだった。

 東国へと向かうにも人手は必要なのだと言われれば、確かに都から東国へと向かうには牛車を使ったとしてどんなに短くても数週間はかかる。

 その間に身の回りの世話する者が必要だが、以前まで世話をしていた召使いは流行り病によって亡くなったのだという。


「長い旅になってしまう。ゆえに、私の世話してくれる者を探していたのじゃ。しかし高齢では旅には付き添えぬし、流行り病に伏せってしまっては本末転倒。男など以ての外。そう考えていた矢先に……その方を見かけたのじゃ」

「で、ですがその、御前様? この子は礼儀も作法も知りませぬ」

「お主は……その娘の親か?」

「は、はい……その通りでござ、い、ます……」


 自分たちの前に突然に放り投げられた小判の詰まったあまりにも綺麗な巾着袋が地面に落ちる。

 中から飛び出した小判の輝きは見る者の脳を揺らし、心を砕き、常識を食い破る。

 牛御前の懐から飛び出した小判の輝きを奴婢たちが今までの人生で見ることは無かったし、これからも見る機会など起こるはずもなかった。

 自分たちがどれほど稲や野菜を拵えたところで得られるはずもない物。それが目の前に落ちて牛車の主は一言だけ言った。


「売れ」

「……はい……」


 母親の目には小判の輝きだけ映されていた。あれだけ強かった母の手は綺麗な巾着袋を我が子よりも優しく拾い上げて愛でていた。

 自分の命運が瞬時に決まったことに頭が追いつかないままアクタは武士たちに腕を掴まれて、親に簡単に売られたことによる精神的な痛みによって曖昧な意識のまま歩き続けて気づいた時には御所の中だった。

 自分たちの住んでいた隙間風が入るようなあばら家ではなく、まるで敷いたばかりの匂いが残る畳や染み一つ無い綺麗で繊細な模様が描かれた襖、高価な調度品が置かれた何が入っているかも解らない棚や日の光を反射する水面のように磨かれた木の机。

 挙げていけば切はないが、アクタが知らない物で満ち溢れた高価な物が部屋中に、いや御所の随所に散りばめられていた。

 そしてそれはアクタ自身も同じように、連れてこられた直後に服を剥かれ、水浴びよりも丁寧に暖かな風呂に浸けられて洗われた。

 さらには入った後には襤褸切れのような前の服は捨てられ、明らかに高価な艶のある黒い着物を着せられた。

 腰帯やそこに添えられた簪も一目見れば高価だと解るほどの物だが、さらには着物から香る匂いがアクタの心を揺さぶり起こす。


「どうじゃ、私の空薫物そらだきものは? 強すぎれば不快にもなろうが、試したところではそれが主には良かろうと思ってな」


 学のないアクタにとっては同い年くらいの牛御前の言うことは丁寧に説明されたところで理解し難い内容ばかりであったが、ただ彼女の言葉よりもアクタにとっては親に簡単に売られたことのほうが衝撃的で頭の中を埋め尽くしていた。

 叱られたことも困らせたことも共に笑ったことも、小判を目の前にした母にとっては何の価値も無かった。

 あの女の顔は何とも表現し切れないほどに喜びに溢れ、手放した我が子のことなどすでに頭にも心にも記憶にも残ってなどいない様相だった。

 都に出る前はあれほど力を合わせれば大丈夫だと励まし合ったことも、父の怪我の具合を心配そうにしていたことも、小判の輝きを前にすれば全て何一つとして価値はなかったのだ。

 自分の今までは何だったのか。自分のこれからはどうなってしまうのかも解らないまま頼る者も術もない御所の中で、アクタの前に座る牛御前は扇で仰ぎながらアクタに話す。


「しかし、丁度良いを見つけられて良かった。私の天命はまだ終わらぬようじゃ。都から出るにはまだ遊び足りぬ。しかし兄上たちに見つかっては処刑される可能性も高い。であれば代役を立てるのが筋が良いとは思わぬか?」


 牛御前は扇いでいた扇で口元を隠し、その奥に嗜虐に満ちた本性を見えぬように笑みを深める。

 パンッと閉まる扇子と共に、同じような音をたてて開いた襖からは異形の男たちが立っていた。

 その目はどこか血走り、鼻息も荒く、口元からは唾液が垂れ落ちる。


「その香は彼らを非常に昂らせるようでな。非常に貴重なものじゃ。お主に逃げられると私が東国に行く羽目に遭うのでな。これから数日間で逃げられぬように身重になってもらう。のう、私の代わりに東国へ行ってくれぬか? もちろん……異論などないな?」


 引き裂かれたかのように鋭く口角があがって笑う牛御前を前にし、動き慣れぬ着物を着たアクタの肩には異形の男たちの手がかかる。

 意識さえ奪われてされがままの長い時間を、アクタは御所で過ごした。牛御前の企みによって。


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