第12話:アクタ一家 シロ
腕の中に確かな重みを感じつつ、腰帯に佩いた刀の鈴をわざと鳴らしながら森の中に入っていく。
勝手知ったる森の中と言えど、森の中にはいつだって危険が潜み付き纏うものだ。
獣たちは常に弱肉強食の理の中で生活し、森の恵みを競って奪い合い、時に自らが森の恵みと化す。
そうして循環する輪の中に入りながらも生きていく上で必要な糧を手にするために、狩人たちは森に入るが今の私にとっては不必要なものだ。
危険は付き纏うのに得る糧はない場所に、わざわざ足を踏み入れるのは
「さて、どうしたものかな……」
しかし踏み入った森の中を進むと幾つもの罠が張り巡らされているのが見えて足を止めた。
この森に自生する痺れキノコを用いた液体を付着させた糸や、触れるだけでかぶれる花粉が撒かれる筒などが設置されている。
隠す気のない罠の数々はここから先に通ることを禁じる無言の圧力として用意されており、それでも無理に通るのであれば相応の死ぬ覚悟をしなければならない。
そういう風に見えるように設置されているが、実際は里側に設置されている物は運が悪ければ怪我をする程度の物なのを知っている。
しかしこの罠を作った者の創意工夫を破壊しながら進むのは心が辛く、わざとかかるのも憚られる。
両腕を使えれば隙間を縫うことも出来るが、それでは気を失ったオウカを熊も居る森の中に放置することになり危険だった。
「おやぁ? 何かお困りですか、サクヤ様?」
弾むような楽しげな女の子の声が聞こえると、樹洞にその身を隠していた彼女が果実を口にしながら姿を見せる。
白い短い髪の上に丸い耳がぴくぴくと動いて周囲の音を拾い集めつつ、しかし彼女の土に汚れた顔や手が隠れるほど大きめの服から見るに森で遊ぶ子供のようだ。
事実、彼女はアキよりも幼く産まれてから十年と少し程度の年齢だったと記憶していた。
「そう警戒しなくてもいい、シロ」
「そうは言ってもさ。オウカ姉ぇが大人しく抱えられてるなんて中々見ないしさ。ついに里の大人たちがシロたちを―――「しないさ。そんな酷いことは」―――でも、シロたち嫌われてるし」
「嫌われている、か。恐らくそれは違う。最初から嫌われている者はそう多くない」
「でも、ちょっとは居るんでしょ?」
「居るには居る。だがそれは悪鬼羅刹、魑魅魍魎の類だ。こんな可愛い女の子ではないさ」
膝をつけてしゃがみ、シロと目線を合わせつつ膝にオウカの身体を半分だけ支えて貰い、右手を抜いてシロの頭を優しく撫でる。
そうすると段々と緊張の糸が解けていき、強張っていた身体や耳が弛緩する。こんなにも分かりやすく愛らしい少女が本当に嫌われているはずもない。
「だが、悪戯はほどほどにするようにしなさい。でないと、本当に嫌われてしまうよ?」
ただ目の前に広がる彼女が張った罠の数々を見ながらそれとなく注意する。里側に向けた悪戯染みた落とし穴や鳴子などの罠は可愛いもので、それだけなく足を引っ掛けるくくり罠や竹の柔軟性を使った竹槍の発射装置などは場合によっては殺傷能力があり危険性がある。
幼い彼女には存外命は簡単に落としてしまうものなのだということをしっかりと教えておく必要性があった。
「でも、かか様が里の者たちを近づけないようにって」
「こちらに来るのは大変だ。面倒だと思わせるくらいで充分だ。森は四方に広がっているのだからね。わざわざ西側に来る必要がないようにすればいい」
「でもサクヤ様は来てる」
「それはそうだ。私はキミたちのお母さん、アクタに用があって来てるんだからね。オウカは道が一緒だから連れてきてるだけだよ」
「かか様に用があるの? でもかか様は……う〜ん……」
シロが頭に両手をあてて唸り声をあげて必死に悩んでいた頃に、一匹の鳥の鳴き声が森の中に響く。
カァーカァーと鳴く一際大きく黒い鴉が空から舞い降り、木の間をすり抜け、枝へと太い足で掴んで飛びついた。
古くから彼らは存在し、遥か昔には三脚を持つ鳥として彼らは世を渡って偉大なる名君たちを導いていた。
星すら隠す闇夜のように黒い羽毛を持ち、他の鳥たちよりも賢き頭脳は道具すら使いこなし、仲間との連携は人族ものよりも機敏に動いていく。
しかしその見た目から恐れる者も多く、不吉や死を運んでくる者などと最近では思われているらしい。
「かか様!」
シロが母と呼ぶ鴉はこちらを黙ってじっと見下ろしていた。鴉自体はシロの母ではなくアクタが飼育する鴉の一匹に過ぎない。
しかしその知能は遥か昔に存在していた八咫烏にも似るほどであり、意思疎通は難しくとも相手の顔を憶えて物を届けることなど造作なく行える。
彼女の意志を伝える代弁者。周囲との会話をしなければならない時にはクロが里に来ているが、緊急の場合は鴉が里を飛ぶ姿も見かけることもあった。
「……アクタに用があって来た。通してくれるか?」
黙ってこちらを見下ろす鴉に声をかければ、鴉は片翼を広げて羽を毟り取って放る。
ひらひらと舞うように黒い羽が抱えていたオウカの腹部に落ちると、ひと鳴きしたあとに背を向けて飛び立った。
どういうことかとシロに顔を向ければ彼女は「通っていいって!」と明るく答えてくれる。
どうやら最近では鴉たちが西側の森の中に入った者を監視しているらしく、黒い羽を持っていない者を敵として認識するようにしているとのことだった。
「アクタは年々用心深くなっていくな」
「シロもそう思うけど、かか様は最近凄く森の外を気にしてるの。それに罠についても教えてくれることが増えたんだ! ちょっと危ないかなーって思って作ってはいないんだけど」
「アクタが? そうか……」
嬉しそうに笑うシロの前で言うことではないと心の中で暗く、冷たい思考が最近のこととアクタの様子を合わせて考えさせる。
決して穏やかではいられない里への脅威を知らせるような行動と、連日連夜に続く水底に沈む悪夢が平穏に冷水を浴びせていく。
不穏の気配が少しずつ近づいてくるような、そんな予感を匂わせる黒い羽を帯に差し込んで立ち上がる。
シロが罠を外していくのを確認し、先導を受けながら彼女たちの領域へと足を踏み込んでいく。
わざと泥濘んだ地面を作っていたり、草葉の影に作った落し穴やくくり罠。他にも数種類の罠を片付けながら進んでいく。
奥へと歩を進めるたびに罠の性質は里側からであろうとも擦り傷や切り傷は当たり前のものだと言わんばかりのものへと変わっていく。
恐らく落し穴はオウカが暴れた際に出来た穴を再利用し、他にも森の動物たちや毒の花を使った罠なども多く存在する。
知らずに通ろうものならば決して無事には帰れないだろう。
ひとつひとつ丁寧にシロが説明し、手が込んだ罠はクロとの合作らしい。自信作の場合は目を輝かせて饒舌に話す様は、虫集めする里の子供と何も変わらないように見えた。
また、話を聴いていれば自然と普段の彼女たちの話しへと移っていく。
「それでね、オウカ姉ぇはすぐに里に行っちゃうでしょ? だからシロとクロ姉ぇ様が家のことを沢山するの。薪割りならオウカ姉ぇが一番得意なのに最近はずっと里に行くの。前は森の熊とかと力比べするって言ってたり、狩りを一緒にしたり……」
些細な姉妹喧嘩や里では見れない彼女たちの日常をシロという少女の口から伝えられていくと、不思議なことに春のような暖かな気持ちと冬の山頂の如き冷たい気持ちが私の心を鬩ぎ合っている。
自分のことなのに他人事のように感じるほどの年季の入った堤のように、いつの間にかガタつき今にも水と温水が合わさり役目を果たすことが出来なくなりそうなほど胸の奥底を締め付ける。
ぎゅうぎゅうと、血の一滴も流れない確かな痛みがあっても少女の前でそれを溢れさせる訳にはいかず、ただ微笑みの仮面を取り付けて静かに足を進ませることだけを考える。
「でも、楽しいのっ! 姉ぇ様たちと一緒に何かするの!」
「……そうか……それは、良かったな」
シロの無邪気な笑顔に頷き、強烈な痛みを抱えながらも話を合わせて笑みを返す。
その痛みは身体を傷つけられるよりも甘く、けれども苛烈に堪えられるのは私が鈍感に成り果てているからだろう。
まるでそれは遠い異国の話のように。幻想的で幸福に満ちた、手の届かない過ぎ去った日々のように。私の心を抉り苛むのだった。
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