第10話:束の間の平穏と繰り返し見る悪夢

 その日もまた底の見えない暗闇に落ちていく夢を見る。

 身体に着けた物は何一つないまま、手には眠る時にも離すことない刀さえない。

 ただ底へ底へと落ちていく。遥か上には光に照らされた水面がゆらゆらと揺れ動いているのが見えるが、それでも自分が落ちていく場所には光が届くことはない。

 口を開けば気泡が溢れ、水底へと向かっていくのを察しつつも何処が底など検討もつかない深さがあった。

 どこまでも、どこまでも深く沈んでいくのを、慌てず騒がず残った空気を節制しながら落ちていく。

 ここ最近になって見る夢はいつもと変わらず、この夢だった。

 最初は動揺し溺れ、意識を失って目を覚ます。現実の身体は尋常ではない寝汗で肌着が濡れている。まるで身を清めた直後のように。

 しかし毎回決まって見るようになった夢はどこまでも自分次第で潜っていく。

 深く、深く、どこまでも。

 そして視界が暗闇に包まれ始めた頃に、世界に雪が振り始める。

 未だにこの身体は水底へと落ちていくのに、世界は不思議な色彩を見せていく。

 白い雪が舞い散り、幾つもの奇妙な魚たちが踊り、不気味な輝きを放つ珊瑚が咲き誇る。

 それでもなお落ちていく場所は見えず、いったいどこまで落ちていくのかを疑問に思った頃に、ただ二つの紅玉が目の前に突然に現れた。


「……サクヤ……」


 暗闇に三日月の穴が開き、そんな言葉を吐き出して目が覚める。

 身体中から溢れる寝汗は変わらず身体に服を張り付け、冷たい山頂の冷気が身体を震わせる。

 ただ自分一人しか住んでいない山頂の小屋は、大した建築技術もない自分でも組み立てるだけで出来るようにして貰った物だ。

 寝泊まり出来れば充分なため小屋に置いてある物は殆ど無い。変えの服や雪解けの水を保管する桶。あとは布団一式程度しかない。

 食べ物も里まで降りるため山頂には必要がなく、最悪の場合は食べずとも死ぬことはない。


「……訓練の時間だな」


 夢見の悪さを張り付いた衣服とともに捨て置いて、普段着に袖を通して小屋を出る。

 手には刀を握り、日が昇る前の日課へと取り掛かるために剣ヶ峰へと向かった。

 小屋の中にも入り込んできていた外気は出た途端に一段と冷たく感じられ、昔なら身体を震わせて布団の中に戻りたいとすら思っただろう。

 しかし、そんな未熟で不出来な自分との別れを済ませたのは里が出来るよりも前の話。

 今はもう自分の身体は自然という鍛冶師の息の合った大槌小槌によって鍛えられ、深呼吸をすることで身体の隅々にまで活力が行き渡る。

 鍛えられた三つの丹田は新鮮な空気という薪を手に入れ、身体の内側にある心臓や肺などの臓器だけでなく頭の中にあった雑念をも消し去っていく。

 感情の高ぶりが沈静化し、足下の地面の感触が直接触れているかのように感じられるようになった頃には、あの魂さえも泡となって消してしまわれそうな海底の夢は遠い空へと消えていく。

 空はまだ黒く、星々が燦然と輝く様は自分の苦しみの小ささを諭されているかのように感じられる。

 剣ヶ峰へと続く道を一歩ずつ歩く度に地面の感触が悠然とした大きさを思い知らせ、決して道幅は広くなくても霊峰たる山の雄大さは若輩者の私を幾度も叩き直してくれる。

 時に風で、時に熱さで、時に風景で、時に気圧で、時に……孤独で。

 それでもなお、私は今日も刀を振るう。

 咲き誇る里のものたちを支え、護るために。



 ――――――――――――

【アキ】


「すぅ…………はあぁぁぁ~……」

「……深呼吸してまで長い溜息を吐かないの」


 何度目かの溜息を吐いたのかも分からないほどに、雨音でも消せない重たい溜息をまた吐いた。

 その重たさは実際に測れるのなら今頃は家の床は抜けていることだろう。

 壁に背中をもたれさせ、畳を見ながら投げ出した足を開いたり閉じたりと何の意味もなく動かしていると、見かねたタエが注意してきた。


「だってさぁ……」

「だっても何もないでしょう。どうせサクヤ様と会えないから寂しいんでしょう?」

「そうだよぉ……サクヤ様が前に山から降りてきたの三日前だよぉ?」

「サクヤ様は自炊もできるから問題ないの。手伝いもしないアキちゃんと違ってね」


 米を炊いている釜の様子を窺いながら、タエが運んできた山菜の盛り合わせを見て壁に背中を預けたまま横へと倒れる。

 色どり豊かな山菜は森で取れた茸や、里で取れた人参や白菜も乗せられている。


「お肉食べたい」

「お肉は一昨日食べたでしょう」

「じゃあ里長のところのムカつく鶏を毟って捌こうよ」

「まだ嫌われてるの?」

「アイツら私を馬鹿にしてくるんだよ!? コケコケ言いながら突っついて来たりして! 追いかければ尻を振って飛び回るんだよ!?」

「虚仮にされてるねぇ」


 鶏を追い回す日々を思い出せば、頭を抱えて悶え苦しんでしまうほどに苦い気持ちも思い出す。

 小憎らしい奴らのすばしっこさは幼少時には捕まえることさえ難しかった。

 いつか捕まえて羽を毟り、その首を落として焼き鳥にして食ってやると心に決めた意思も今は他の子供たちに受け継がれているはずだ。


「タエはいいよねぇ。昔から鶏どもが大人しくてさ?」

「怖がられて近寄ってくれないだけだよ。卵を取る時だけ一斉に鳴かれるのは怖かったんだから」

「必死の抵抗みたいな鳴き方だったなぁ、あれは」


 鶏の考えていることなどまるで解らないけれど、それでもタエに卵を取られないように最後の抵抗として大人しかった鶏たちが一斉に鳴き出したのは非常にけたたましかったのを憶えている。


「でもアレだよ? サクヤ様にはアイツらも大人しいんだよ?」

「私たちとは違うよ、サクヤ様は」


 蓋が浮き上がるほど沸騰し吹いた釜の様子を確認し、タエは薪を退かして火加減を調節していく。

 米の炊き方が上手いのは料理上手な者が多く、何度もタエの様子を見ながらどういう風に作っているのか観てきた。

 前回サクヤ様に食べて頂いた物は米炊きに失敗し、おこげとは決して言えないほどにほとんどが炭化していた。

 そんな粗末な物をサクヤ様は食べてくれた。こんな不甲斐ない自分の手料理を笑って許してくれるあの方に、今度こそ美味しい物を出したかった。


「背中に凄く視線刺さってる気がするなぁ。気になるならこっちに来てもいいよ?」

「ううん。今はこっちから全体を観るほうがいいと思うの」

「何と戦ってるの……?」


 タエの顔は見えずとも困惑している雰囲気だけは伝わってくるが、こちらもタエの動きをよく観察しなければならない。

 手際よく動くタエを参考にするならば全体を俯瞰して見なければ間に合わない。

 同時進行で行われる作業は、使った道具も片づけていく。恐らくもう使わないのだろう。

 私ではあとで使うかもしれないと思ってあとで片すことになるが、タエの頭の中ではもう片付けても問題ない道具なのだ。


「むぅ……やっぱり料理は難しい」

「もう少し待っててね。あとはもう待つだけだから」


 振り返ったタエが前掛けを外している姿を見れば里の男性陣が彼女を気にしているという噂も眉唾なものではなさそうだと思える。

 しかし釜の蓋が外れるのを防ぐためとはいえ、大きめの石を片手で平然と乗せられたり、壁に仕留めた獲物の頭の剥製があったりする女性の家に二の足を踏む男たちは多い。


「タエはまだまだ結婚とかしなさそうだねぇ」

「……アキおばあちゃん。もうご飯は食べたでしょう?」

「ごめんって! 謝るから! ね? だから片づけようとしないでぇえ!」


 ニッコリと笑いながら片づけられていく最初の食事を取り上げられ、腹を空かした身としては良い匂いを放つ作り立ての食事に抗えるはずもなく、土下座をしてでも止めるのだった。


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