第1章:不尽山を守りし姫
第1話:不尽山に住まう剣
シン……と物音すら消えた世界。雲よりも高いその場所にて刀を振るう。
草木も生えないその場所は空気が薄い所為で呼吸はし辛く、肌を刺すような冷気が頭の上から足先まで凍らせようとする。
それは未だ雪化粧を施す山頂だからということもあるのだろう。それは慣れぬ者であれば道の途中で滑落し命を落とす程度には険しい道程が証明している。
そんな中でも振るう刀が空気を引き裂き、昇る朝日が夜明けを告げるこの瞬間は自分だけの特権だった。
世界が赤く染まり、新たな一日が生まれる瞬間は毎日見ても飽きることはない。
「……二千っ!」
二千回の素振りを何度目か。休憩と鍛錬を繰り返し反復させ続け、朝日によって鍛錬の終了を告げられる。
刃の波紋が朝日を浴びて輝き、その刀が生まれながらに持った輝きが朝日を反射する。
ただ一人で続ける鍛錬も苦にならない程に全てを忘れる時間が終わる。
これ以上続ければ山頂を駆け抜けたとしても、里へと戻って森の巡回もしなければならないことを考えれば時間はない。
「ここまでか……」
肺が凍りつくような寒さは吐き出した息を白く染め上げ、鞘に納刀した際にチリンと鈴の音が山頂に響かせる。
八峰のうちの自分だけの鍛錬場、剣ヶ峰は最初の頃は吐き気さえ感じた場所は今となっては自分だけの居場所となっている。
こうして刃を振るって鍛錬を積む場でさえ里の者とは違うが、それでも役目を考えればそれも当然のことのように思える。
風が吹き抜け、地面から舞い上がる雪の粒が朝日を受けて煌めき、汗をかいた身体を瞬時に冷やしてくるのを黙って受け止め下山する。
下山もまた鍛錬。肌に張り付いていた桃色の髪は風に舞い上がり、汗を吸った衣服は冷たい重りだ。
空気の薄さは判断力を奪い続け、足下の雪が体勢を崩させて滑落させようとする。
常人が鍛錬と呼ぶには死が付き纏い過ぎている環境も、今となっては鍛錬と呼べるだけの感想にまで落ち着いている。
駆けるたびに雪につけた足跡が残り、腰に佩いた刀の鈴が鳴る。それは霧のような雲を突き抜け、雪が消えて地面が露出し、深い森の中へと入るまで続いた。
「お迎えに来ましたよ、サクヤ様!」
森の中に入ると草木を掻き分けて並走するのは、茶色の短い髪に犬耳の少女だ。その手には渇いた布があり、満面の笑顔とともに布を差し出してくる。
「アキか。今日も待っててくれたのか?」
「はいっ! お勤めを頑張っているサクヤ様は私たち、里の住む者にとっての護り神のような方ですので!」
「ただの巫女だ。そんな大層なものではないと何度も言わせるな」
「す、すみません……」
少しだけ強く否定するとアキは先程まで立っていた尻尾も耳を垂れ下がり、全身で落ち込みを表現する。
隠せない感情が少女の愛らしい欠点だが、注意だけのつもりの発言が彼女を落ち込ませるとは思わず謝罪した。
「すまない。アキの心遣いは感謝しているが、実際私はそんな大層なものではない」
「い、いいえっ!? サクヤ様が謝ることなんてないですよ!」
「いや。本当のことだ。私はただの―――」
―――ただの、生贄でしかない。
そう口走りそうになるのをぐっと堪える。そうしなければアキがまた悲しそうな顔をすることが想像できたから。
「サクヤ様?」
「……何でもない。それより里の方向で騒ぎが起きているようだが」
「たぶんですけど……オウカとタエがまた喧嘩しているんだと思います。今度は何が理由なんだか」
呆れるような口調で並走しているアキは話し、木々に遮られていた視界は段々と拓けていく。
近付くほどに聞こえてくる声は大きくなり、そして地鳴りのような腹の底へと響く衝突音が幾度も届く。
暗い森から陽の光が差す明るく拓けた場所へ飛び込めば、最初に見たのは大柄な体をした黒い髪に熊の耳を生やした女性と、黒と黄褐色の髪色をした猫にも似た耳をしている少女の姿があった。
「だりゃりゃりゃりゃ!」
「破ぁあっ!」
朝から行われる両雄の戦いは、力任せに殴りつける猛虎の連打を受け止める熊の壁の如き防御。そして隙をついた重い一撃が猛虎を吹き飛ばす。
虎の連打の一撃は木々の皮を剥ぐほどの威力を持ち、熊の腰の入った一撃は木々を圧し折る威力を持つ。
里において肉弾戦を得意とする両者だからこそ、一度戦うと引くに引けぬ争いとなってしまうらしい。
「毎度毎度のこととはいえ、どうしていつもオウカはタエに突っかかるんでしょうか?」
「あとで本人に訊いてみるといい。今は仲裁が先だ」
「あ、サクヤ様!?」
振り上げられた拳と打ち据えるために振り下ろした拳が衝突する間際に、その間に滑り込み拳に手を添えて方向をずらす。
盛大に空振った拳は空を切り、風を唸らせ、拳を放った両者の態勢を崩す。
しかし両者の拳は軽く触れて受け流したというのに、手の平を薄皮一枚とはいえ切り裂いて出血させた。
「サクヤ!?」「サクヤさん!?」
「……オウカ。タエ。お前たち、朝から元気が過ぎるのではないか?」
虎人の少女であるオウカは瞬時に距離を取り、熊人のタエはすでに戦う意識を失い、慌てて懐から手拭を取り出して出血した手の平に当てる。
「申し訳ございませんっ。このようなことに巻き込んでしまいまして……」
「タエ。そう強く握らずとも心配ない。私の身体にもう傷はないんだ。それより朝から何の理由で争いになった?」
「その……オウカが里一番に強い者は何者かという話から、いつの間にか言い争いがこんなことになってまして」
「オレが一番強いって証明してやるって言ったんだよ! そしたらタエの奴が『私にも勝てないくせに』とか言いやがるからっ」
「事実でしょう。貴女如きが里一番など……」
「あぁ!?」
「はぁ?」
視線が衝突し火花が散る。そんな幻視をしつつも相手の視線を遮るために両手で両者の視線を塞ぐ。
彼女たちがつけた傷はすでに無く、それでも流した血液だけはそこに傷を作った証として残されている手を見て二人は止まり、徐々に落ち着きを取り戻す。
「言いたいことは解った。私が知りたいことも知った。里で二人のような強い者が居ることは里の防衛力が上がっているということだ。私としては喜ばしい話だ。が、それは周囲に迷惑をかけてまでやることではない。特に、朝は里の皆も忙しい」
「そ、そんなことくらい知ってるよ!」
「ではオウカ。お前の姉妹が待っていることに気づいているか?」
「えっ」
森の中からこちらを見ている二つの影がスッと音もなく姿を現した。
一人は顔が隠れるほどに黒く長い髪を持ち、服の隙間から僅かに見える肌には蛇のような鱗が見え、日陰から出てくることはない。
もう一人は白い狸のような耳をした少女だ。傍らに佇む落ち着いた女性とは対照的に、生き生きとした印象が見て取れるほど先程まで遊んでいたかのような頭に幾つもの葉や枝を乗せて汚れていた。
「シロに……クロ姉ぇ様まで」
「かか様に朝餉にするから呼んで来いって言われたんだよー?」
「……帰り……ますよ……」
里から離れた場所で暮らす彼女たちに迎えられ、オウカは少しだけ名残惜しそうにしつつも大人しく迎えの二人に付いて去って行った。
恐らく滅多に姿を見せない蛇人のクロまで姿を見せたことで、早々に戻る決断をしたのだろう。
もしくはこの場で駄々を捏ねようものならば、クロの尋常ならざる握力によって腕を折られる危険性を考えてのことかもしれない。
どちらにせよオウカは去り、あとには暴れたことによって荒れた地面を当事者であるタエが渋々直すことになるのを、アキと共に手伝う朝の一幕だった。
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