- spécialité -



 Amiアミ


 「愛」の意味を持つ単語たちに共通する、極めて古い語根。アミが、そんなわかりやすい偽名を口にすると、丁度良く頼んでいたカーディナルが届いた。上機嫌で唇を湿らせるアミの、グラスを持つ指の爪が目の覚めるような赤で、カクテルの色とも合って良く映えていた。


「えっ、乾杯しましょうよ。」

「……水でも頼んだら? すぐ出てくるわ。」

「うはぁ、辛辣っすねー。」


 Hekの方へふわりと、女の好い匂いがした。アミが纏うCHANNELシャネル5番N°5と混ざって、えも言われぬ魅惑的な香りだった。これはだ、自分が美しい女だと知っている女だ、とHekは一層警戒を深くした。


 対照的に、アミは会話を楽しんでいるようだった。唇から零れる言葉の間に込められる毒が、アミという女に深みを与え、Hekの後輩はアミの魅力に憑りつかれているかのようでさえあった。



「男ってみんなそう。気持ちいいセックスを教えてくれるって……嘘ばっかり。」

「オレはそんなことないっすよ。」

「あなたも、同じこと言うのね。」



「付き合って別れた女の数とか、浮気や不倫の自慢、セフレが何人いるとか……そんなモテないこと丶丶丶丶丶丶ばかり言うヒトと付き合いたいって思う?」

「えっ、それは……ほら、あれですよ。」

「好い男は、不幸にした女の数を自慢するかしら。」



「気持ちの好いところを二人で探し合うのに、男って必要? イクときも、イカされるときも自分勝手じゃない。ねえ、ゴムを臭いの違いで選んだことが一度だってあるかしら。」

「……今度、どれが良いのか教えてくださいよ。オレ、そういう勉強は得意なんですから。」

「そういう狡賢さの、間違いじゃなくって?」



 男のあしらい方をよく知っている、とHekも平和な会話が続けば感覚が麻痺して、そんなことを思い始めていた。

 会話が弾めばカクテルも進み、煙草が欲しくなる。アミがMarlboroマルボロを取り出して咥えた時、Hekはいつもの癖でクラブの安ライターを取り出して火をけていた。瞬間、かつての記憶が甦るもアミは「気が利くじゃない。」と顔を寄せてフカしていた。それが気を良くし、自然と釣られるようにHekも懐から馴染みのLarkラークを取り出して吸い始めていた。

 数舜遅れて後輩も、慌てて取り出したWinstonウィンストンCASTERキャスターに火を点す。


 紫煙が三条、ふわりと宙を舞う。いつの間にか、他の客はみな帰っていた。


「ふぅ……なに? タバコを吸う女は嫌い?」

「似合ってますよ。」

「似合ってる……ね。」


 今夜、女が初めて見せたかげりのある表情。有能なキャリアウーマン然とした姿と相まって、男に生唾を飲み込ませるほどなまめかしかった。タイトスカートから覗くスラリと伸びた脚を組み替えたり、ブラウスにかかる髪の毛を払ったりする仕種に、惹きつけられる。


「ねえ、わたしたちって、何色の服を着たらいいのかしら。」


「……服の、色っすか? オレは今着てるの、すごくいいと思いますけど。」

「ありがとう。でも、そういうことじゃないの。」

「はあ。じゃあ、」

「俺は、なあ――、」


 アミと名乗った女が見せた表情が気になって、Hekは後輩の言葉を切ってらしくない丶丶丶丶丶自分語りを始めてしまう。飲みかけのモヒートのグラスを傾けて、グッと一息で空けた。


「――鍵屋なんて長くやってると、時々思うことがある。搾り取ってるようで、搾られているのは、俺たちの血じゃねえかって。だからこういうところで、出涸らしの血液をモヒートで潤す必要があるんだよ。それが洒落たものじゃなくていい。ここだってBACARDIバカルディにソーダを注いだ安酒で、カクテルの真似事イミテーションだ。」


 やけに、饒舌になってしまう。アミという女の前で、本心を晒さずにはいられなかった。Hekは、細身で無口なバーテンダーににらまれた気がして、それでも構わない、といつになく大胆だった。


「高級ホテルのバーカウンターじゃない。似たような味で、雰囲気だけの偽物だ。それを有難がって喉を潤して、色んなものを流し込んでいればな、言われた色の服着て暮らすのが当たり前になってんだ。」

「ふふ。鍵屋さんは素直なのね。」


 柔らかく微笑んで、吸い止しを灰皿で潰して、アミはお手洗いに席を立った。

 それを見送って、後輩がHekに詰め寄るように問いただす。先ほどの、Hekらしくない言葉を半ば茶化すような口調で、もう半分では共感したことへの気恥ずかしさを隠すような早口だった。

 そして後輩はアミが戻る前に席を立った。Hekが軽く制止する声も聞かず、気障ったらしい言葉でHekを一人残してトイレがある方へ向かう。カウンターには、後輩が飲みかけたカクテルとそれぞれが置いた煙草だけが残された。


 Hekは、口に運んだLarkが短くて、不味くなった煙に苦笑いを浮かべて残りを消し潰した。

 三つ、鈍色の使い込まれた灰皿は、Hekのものだけ吸い殻より灰が多かった。


「鍵屋さん。」


 一人、帰ってきたアミがまたHekの隣に座る。なんとなく、これからもう少しだけ会話に花が咲きそうだと思ったHekが、最後にもう一杯とモヒートを頼むとアミも「同じものを。」と注文する。


「口説かれちゃった。……若いのね。」

「そいつは、悪いことをしたな。あとで言い聞かせておくよ。」

「壁にまで詰め寄ってきて、ようやくキスマークに気付いたみたい。そんなに珍しいものかしら。」


 クスクスと笑い、Hekの言葉を聞いていないかのように言葉を紡ぐ。その視線は、心なしかバーテンダーの方へ向けられているようで、Hekの視線に気づいたアミが「ここのマスターとは仲良しなの。」と告げる。Hekは後輩の無念をしのび、そして思い出したようにまた一本、煙草に火を点していた。

 同時に、アミも煙草を咥えていた。S.T.Dupontデュポンの、蓋を跳ね上げる小気味良い金属音に続く擦過音。ライターの揺らめくあかりがアミの表情を深くする。吸い込まれそうな光景は、しかし、二度目の金属音で現実に引き戻された。


 閉じられたフタ。幻想が終わる。


「どうしたの?」

「い、いや……。」


 何をたずねたかったのか。Hekがそれを思い出すより先に後輩が戻ってきて、飲みかけのカクテルを一息にあおっていた。


「ああ、じゃあオレも何かもうひと――、」


 変化は、劇的だった。


「――ぐっ、うっ、あがっ。」


 Hekの後ろから、苦しむ声が聞こえた。

 そんなものが聞こえて、振り向かずにいられる人間がどれほどいるだろうか。

 カウンターを爪がひっかく音、背中にもたれかかる後輩の体重、荒い息。


 それでも、Hekは目の前の女が微笑みを絶やさずにいたから、振り返ることが出来なかった。背中に感じる確かな死よりも、女から漏れ出る妖艶な死の気配の方が、ずっと濃厚だった。


「振り向いたら、ダメ。」

「あ、ああ。」


 Hekと女が指に挟んだままくすぶり続ける煙草の煙が、線香のようにのぼる。

 女の表情は子守唄を聞かせる母親のように穏やかだった。それでも女が殺し屋として確かな存在感を漂わせるから、Hekには怜悧に見えた。


 Hekátēヘカテー。死を司る美しき運命の女神。無敵の女王。


 女と対照的に、Hekは祈るような表情だった。煙草の吸い口は、すがり付かれたわらのように折れ曲がり、潰れている。それを気づく余裕はなかった。ただ、溢れ出る汗が冷えていくごとに、魂を奪われ続けていくような錯覚に陥っていた。


 そして藻掻もがき苦しみ、うめく声が収まったころ、吸いしから灰が落ちた。


「鍵屋さん。」

「……ああ。」

「今夜、わたしと貴方たち二人はここで一緒に飲んで、そして彼一人だけ、寝てしまったの。ゆっくりと、深い眠り。」

「ああ。」

「気づいたら、心臓が止まっていた。」

「……わかった丶丶丶丶。」


 そこまで告げて、アミと名乗った女が席を立った。

 目に痛いほど、ゴージャスな女だった。

 溺れるほど、好い匂いがした。


「なあ、」


 どうして引き留めてしまったのか。声をかけた瞬間に覚えた後悔。


「なに?」


 それでも問い質したかった。


「どうして、俺は生きているんだ?」


 女は、意表を突かれたようにきょとん丶丶丶丶としてクスクスと笑った。


「鍵屋さんって、可愛いこと丶丶丶丶丶を訊くのね。」


 それだけ告げて、アミと名乗った女は去った。

 呆気にとられたHekが我に返るころ、バーテンダーの姿も消えていて、カウンターにはモヒートが二つ残された。



 しかし、そのモヒートが誰かの渇きを潤すことはなかった。








~fin~


カクテル言葉

アドニス      :謙虚

エルディアブロ   :気を付けて

カーディナル    :優しい嘘

キール       :最高の出会い、陶酔

ジャックローズ   :恐れを知らぬ元気な冒険者

スクリュードライバー:あなたに心を奪われた

スティンガー    :危険な香り

ソルティドッグ   :寡黙

モヒート      :心の渇きを癒して

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Hekátē 朝倉 ぷらす @asakura_plus

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