Hekátē
朝倉 ぷらす
- Amuse -
その女は大胆にも窓から飛び出して、
それは雨の日で、男が傘を差そうと下を向いた瞬間だった。
俺は一週間も続いた梅雨時の雨、蒸し返す
それは、鮮やかな殺しだった。
頭を
あの女。足を止めることもなく柔らかく細めた流し目で、微笑みやがった。
そのまま雑踏に消えた女の
あの女が
*** ***
その男はいくつものクラブでスタッフに
『自分で言うのも変ですが、ちょっと面倒ですよね。』
『カギ開けた後にまだ指示があるのが、もっとメンドウ。』
Hekは、思い出す度に身震いしてしまう。ロッカーのその先が気になって投げた問い掛けの返答は、Hekを黙らせるのに十分だった。こういった
当然の結果として、いつからかHekは「鍵屋」全体の集金や上納を任される「鍵番」になっていた。だから上納金を届けるため、
『あの女だ。』
Hekは思わず
昼、Hekは本店の事務室で上の者が帰ってくるまで待たされていた。Hekは窓から見る景色を好んでいて、窓があれば何となく開けて外を見てしまう。表通りに面した本店2階の事務所から見下ろすと、多種多様な人間がそれぞれの思惑で
その中に、やたらゴージャスな女がいた。あの日Hekを見逃した女殺し屋が、白昼堂々と風を切って歩いていた。髪型も髪の色も恰好も以前と異なっている。だというのに、その圧倒的なまでの存在感が女の同一性を訴えている。それだけで、あの日見た女だという証明になっていた。
街側の人間であれば、どれほど抜けていても気付けなければならない、死の匂いをまとって歩く妖艶さに気付けない
『何?』
『お姉さん。ちょっと話、良いですか? あ、オレはそこの――』
耳を
それに一体どんな経歴があれば、あれほどの女が殺し屋をすることになるのか。その一端が会話から窺えるかもしれない、という妙な期待もあった。
『火を、くれないかしら?』
その期待は、早くも裏切られる。
戯れ言など二つ三つも聞けば十分だとばかりに会話を切り上げて、有無を言わさぬ笑みを作って下っ端を小間使いに仕立て上げた。
『え? は?』
『火ィ……火よ。ライターくらい持ってないの?』
小さなカバンから取り出した赤の
たっぷりと時間をかけて一本の煙草を楽しむ女は、客引きの下っ端をスタンド灰皿か何かだと思っているのだろう。下っ端が慌てて取り出した携帯灰皿に、灰や吸殻を捨てるのみで無言を貫いた。その間に下っ端が果敢に声をかけるも、すべて知らん顔だった。
『じゃあね。』
下っ端の、呆けた顔が印象的だった。女は最後に少しだけ優し気な笑みを見せて、そして颯爽と去っていた。何かに化かされたように動かなかった下っ端は、十数秒経ってから
なんという女だろうか。それがHekの抱いた感想だった。やはり関わらないのが吉である。この街で少しでも長く生き残るためには、ああいった連中から逃げ続けることが肝要である。
事実、数カ月もしないうちに、例の下っ端の姿を見かけなくなった。
あれは、そういう女なのだ。と、Hekは肝に銘じていた。
だというのに、蛮勇を冒険と誇る若者は、どこにでもいるものだ。
「お姉さん。隣、良いですか?」
一目で気づいた。女は今日もまた、Hekが初めて見る髪型で、髪の色で、格好だった。
相変わらずゴージャスな雰囲気をたっぷりと
「何? ナンパ?」
「いえいえ、そんなんじゃないですよ~。」
最近、羽振りが良いという後輩に誘われるままに深夜、初めて訪れるという場末のバーに来てしまったことをHekは後悔した。まさか例の女殺し屋と偶然会うとは知らず、しかも後輩は陽気に話しかけている。
Hekは、自身の顔面から血の気が引いていくことに気付くほど、
「待っ――」
事情を知らない莫迦を止めなければならない。Hekは、直ぐさまこの場から立ち去りたかった。
「パス。」
「そんなあ。」
Hekは、自身の焦りを知らない後輩の間抜けな言葉に瞬間的に苛立ちながら、女の素っ気ない様子や短気でない対応に安堵するという、不思議な感覚に襲われて動けなかった。
だから女がHekに気が付いて、そして悪戯っぽい笑みを浮かべた時には自身の不幸を呪い始めていた。
「あら。
蛇に睨まれた蛙がHekだった。知られていた。それだけの事実でHekの足は縫い留められた。
「先輩、知り合いだったんですか? っていうか、なんで変な顔してるんですか。」
「い、いや。」
「隣に来る? 鍵屋さん。」
それを
「じゃあ、俺は……スティンガーかエルディアブロを、」
「アドニスか、ソルティドッグが好きじゃなかった?」
「……そういう日も、あるんだ。」
「仲いいっすね。」
「あなたはジャックローズとか好きそう。」
女は
その、ぶくぶくと膨大に太り続ける恐怖を押し留めるために、心がアルコールを欲していた。
「そうそう鍵屋の後輩くん。わたしのことは"アミ"って呼んでちょうだい。」
それは、わかりやすい偽名だった。
~to be continued~
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