第百十話   楽 園 (らくえん)

 少女と共に彪人の里を発って三日が経っていた。

 二人が目指すのは、いつかアシュヴァルが行き先として示してくれた自由市場と呼ばれる西の大集落だ。

 世界中から多くの人々や物品の集まるその場所ならば、自身らの由来にたどり着くことができるかもしれない。

 そう考えた少年は、ローカと相談した上で改めてそこへ向かうことを決めたのだった。

 今度は誰かに追われての旅ではない。

 自分たちが自分たちのことを知るための、追求のための旅だ。

 西の地に向かって、二人は一歩ずつ確実に歩みを進めていた。


 そうして歩く中、ふとローカが足を止める。

 うずくまるように座り込んだかと思うと、草履を脱ぎ捨てて足先をさすり始める。

 新調した草履が合わなかったのだろう、見れば擦れて赤く腫れた皮膚があまりに痛々しい。


「気付いてあげられなくてごめん……」


 謝罪を口にして、自身も腰を落とす。

 水筒の水で傷口を洗い流し、彪人たちから持たせてもらった壺草の膏薬をその足先に塗った。

 幾分か楽になった様子を見せる彼女だったが、やはりこのまま歩かせるのは忍びない。


「今日はもう休もうか」


「平気」


「でも……」


 気遣いの言葉に小さく左右に首を振って答えると、彼女は擦れて赤くなった足を両手で愛おしげに包みながら言った。


「わたしがわたしで歩いたの。痛いのもぜんぶわたしのもの」


「君の——」


 これ以上痛い思いもつらい思いもしてほしくないのが少年の本心だ。

 せっかく自由を手にすることができたのに、その先に待つのが苦難の道であってはならないと考えるからだ。


「そう」


 不安げに呟く少年に対して短く答えると、ローカは自らの負った傷を慈しむようにさする。


「誰のものでもないわたし。楽しいもうれしいも、少し痛いぐらいがちょうどいい」


「誰の——ものでも……」


 少女の口にした言葉を繰り返し、改めてその言葉の持つ意味について考えを巡らせる。

 ローカと共に彪人の里を逃げ出した夜、里長ラジャンから彼女のことを品物として見ているのは誰でもない自身であると論及された。

 それは違う——あのときは必死に否定したが、思い返せば思い返すほどにラジャンの見立てが確かであったことを思い知る。

 鉱山から戻り、再び里長の屋敷を訪ねた際もそうだ。

 まだ心のどこかでローカを彼の持ち物として捉えていることを、彼はたやすく見抜いてみせた。


 最初から間違っていたのだ。

 ローカが他者から所有物としての扱いを受けていると知り、救い出すための手立てとして取ったのは、当の商人とまったく同じ手段だった。

 金で買われた彼女を、金の力を使って買い戻す。

 その行為自体が、根本から間違いだった。

 売る者がいるから買う者がいる。

 言い換えれば、買おうとする者がいるから売ろうとする者が現れるのだ。

 それはローカを買い取るために支払った金が、彼女と同じように他者に命運を握られることになる誰かを生む可能性を含んでいる。

 人が人を所有することを声高に否定してみせた他でもない自分自身が、人の売り買いの片棒を担ぐところだったという矛盾をラジャンは教えてくれた。

 ならば彼女を自由にするためにどんな手段があったのかと考えるが、結局答えは出なかった。

 ラジャンのように問答無用で我意を貫く強引さもなければ、それを押し通すだけの強さも持ち合わせていない自身には、初めから選択肢さえなかったのかもしれない。


 正しくありたいと思う。

 できることならば誰にも迷惑を掛けることなく、誰一人傷つけることなく、つつがなく日々を過ごしていけたらいいと願っている。

 しかしそんな願いがたやすくかなえられるものではないことを、目覚めて以降の暮らしの中で知った。

 いつかアシュヴァルが教えてくれたように、世界は奇麗なものとそうでないものとが混沌として入り乱れた坩堝に他ならない。

 大地を削り、空を煙で染め、水と風を汚してわずかな金を得てきた自身には、そのことがよくわかる。

 それがたとえ道義的に受諾し得る範囲から逸脱していたとしても、大切な人に豊かな暮らしを贈るためであれば、その道を選ぶのが人なのかもしれない。


 自身もその例に漏れることはなく、ローカのためならきっと何度でも同じことをするだろう。

 間違いとわかっていても、罪を背負うと知っていても、その先に苦難の道行きが待っていると理解していても、そんなことはなんの障害にもならない。

 大いなる誤謬だと思う。



「——ン」


「……あ、ごめん」


 少女の呼び掛けを受け、我に返る。

 考え事に没頭するあまり、今ここにいる彼女を蔑ろにするところだった。

 草履の紐を結び直したローカは跳ねるように起き上がり、膝を突いて座り込んだ少年を見下ろす。


「行こう——」


 見上げる少年に向かって手を差し伸ばし、少女はその名を呼んだ。


「——エデン」


「うん」


 立ち上がって少女の掌を取ると、少年は手を引かれるまま歩き出した。




「それって……自分のこと?」


 彪人の里を発って二日目の夜、ローカが不意にその言葉を口にした。

 初めは何を指しているのかに気付けずに困惑したが、ふとそれが彼女の付けてくれた名前なのだと悟る。


「エデン」


 自身で呟いてみたのち、遠慮がちに尋ねてみる。


「どんな意味なの?」


「わたしたちの目指すところ」


「目指す——ところ……」


 繰り返す少年に対し、彼女は小さくうなずき返す。


「空よりも高い場所にあって、山や森や野原や河——奇麗なもの、美しいもの、他にもなんでもあるところ。たくさんの果物、美味しいものやいい匂いのするものがたくさんあるところ。楽しいことばかりしかなくて、痛いことも苦しいこともないところ」


 普段通りの淡々とした口調ではあったが、いつになく雄弁に語る少女の言葉に静かに耳を傾け続ける。


「行こうとしても行けないけれど、行けないって思っていたらやっぱり行けない。人が生まれて、憧れて、夢に見て、それでも届かない——そんなところ」



「……そっか。そんな場所があるなら、それはすごく素敵だね」


 頬を緩ませる。

 不毛の荒野をさまよい歩いていたあのとき、世界はなんと無情なものだと痛感した。

 坑道深く潜って無我夢中で十字鍬を振るい始めた当初、世界はなんと暗く狭く、厳しいものなのかと打ちのめされた。

 だがそこに暮らす人々のことを知るに連れ、世界は徐々に広がり始める。

 その抱く思いに触れ、努力の成果に一喜一憂し、胸の内にさまざまな感情が芽生えていくのを感じた。

 鉱山を飛び出せば、視界に広がる色鮮やかな景色に胸を躍らせた。

 草木や風の音と匂いを聞き、どこまでも広がる世界に思いをはせた。


「けど——」


 言葉と思いを通い合わせられる誰かがいてくれることに、同じ歩幅で傍らを歩いてくれる誰かの存在には、この上ない喜びと感謝とを覚えずにはいられない。

 少女の語る理想の世界、その半分ほどはすでに手の中にあるのではないだろうか。



「——それって、と似てる」



 微笑みを浮かべて大地を指し示し、両手を広げてひと回りしてみせる少年を前に、少女はどこか腑に落ちかねた表情で「ん-」と頭をひねる。

 そしてしばしの黙思ののち、一人納得したように「ん」とうなずいた。





 第一章 「彪 人とらびと 篇」  〈 完 〉












 『百从ひゃくじゅうのエデン』第一章、「彪人篇」を最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。


 ここまでのお話、お楽しみいただけましたでしょうか。

 よろしければこのまま第二章にお進みいただき、引き続き少年と少女の選んだ道を見届けてくださるとうれしいです。


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