第六節  新たな旅立ち

第百九話   挨 拶 (あいさつ)

 翌朝早く、少年は里長ラジャンの屋敷にローカを訪ねていた。

 改めて「一緒に世界を見て回る旅に出てほしい」と伝えるためだ。

 求婚のあいさつを控えでもしているかのように気の落ち着かない少年は、結局昨夜から一睡もできずに朝を迎え、目に隈を作ったまま少女の元に赴くことになってしまっていた。

 緊張でこわばった身体を引きずって屋敷の母屋を訪ねるが、事態は思ってもみなかった展開を見せる。

 屋敷の玄関に足を踏み入れたところを小走りで迎えたのは、真新しい衣服に身を包んだローカだった。

 それはずだ袋のような襤褸でも、彪人の女たちのまとうような薄布でもない。

 これ見よがしに回ってみせる彼女に続いて、屋敷の奥から現れたのは件の女たちだ。


「旅に出るなら動きやすいほうがいいでしょう」

「とってもお似合いよ。あなたもそう思わない?」


 同意を求めるように微笑みかける女たちの傍らでは、ローカがしきりにうなずいている。

 彼女の中では、どうやら旅に出ることは既定の事実らしい。


「ローカ、一緒に行ってくれるの……?」


 気の抜けた声で尋ねれば、少女は「ん」と一段と大きなしぐさでうなずいてみせた。


 四人の女たちが用意してくれていたのは、ローカのための衣服だけではなかった。

 彼女らは少年が身に着けていた衣服を無理やり剥ぎ取ると、ローカのそれとよく似た作りの衣服をああでもないこうでもないとはしゃぎながら着せ付け始める。

 どこか見覚えのあるその形状は、彪人の子供たちが身に着けていたものだ。

 わずかに直しを入れてもらうだけで、子供用の上下は身体にぴたりと合った。

 尾を出すための穴は、必要ないからと縫い合わせてもらう。

 新調してもらった腰帯にラジャンの剣を差したのち、居ずまいを正して女たちに礼を言う。

 何度も何度も着つぶしては、そのたびに買い直した衣服に最後の感謝を伝えることも忘れなかった。



 少年と少女は、出立を五日後に定めた。

 アシュヴァルや里の皆に力を貸してもらって支度を整え、旅をするに当たって必要な知識も可及的速やかに頭にたたき込む。

 準備の間に戦士たちの稽古を見学し、折を見てそれに加えてもらうこと、少女と一緒に農作業や酒場の手伝いをし、仕事終わりの皆と共に食事を取ることも度々あった。


 五日間を彪人たちと共に過ごし、旅立ちの日はあっという間に訪れる。

 最後にもう一度感謝を伝えようと、当日の朝になって里長ラジャンの元へと出向いた二人だったが、結局会えずじまいのままに出発を迎える運びとなる。

 女たちが言うには、彼は朝から屋敷を留守にしているらしい。

 どこに行ったのかを尋ねると、彼女らは顔を見合わせて含み笑いを浮かべる。

 そしてここ最近になり、ラジャンが朝から一人で武芸の稽古をしていることを教えてくれた。


「この頃は元気でいてくれてうれしいの」


 笑い交わす女たちの表情を見れば、その言葉が四人のうそ偽りのない純粋な気持ちなのだとわかった気がした。



「お前は弟だ。いつでも遠慮なく戻ってこい」


 普段通りの落ち着き払った口調で言うバグワントに礼を返すと、続いて離れた場所から様子をうかがうシェサナンドの元に足を進める。

 ローカを救ってくれたことに対して礼を伝えれば、彼は不機嫌そうに後ろを向けてしまった。

 制裁の件について今一度謝罪を口にしようとするが、これ以上触れるべきではないと思い至り、出かかった言葉をとっさのところでのみ込んだ。

 

「ちゃんと守ってやれよ」


 背を向けたままのシェサナンドは、聞こえるか聞こえないかの声で呟くように言った。



「なあ、行くなよ!! 」

「ここで一緒に暮らそうぜ!!」

「俺もそれがいいと思う!!」


 ヌダール、エッシュ、ヴァルンがせきを切ったように号泣しながら言う。

 大きな身体を縮こまらせて取り付いてくる三人にうれしさとおかしさの入り交じった表情で伝えたのは、よくしてくれたことに対する感謝の意と、いつか必ず帰ってくるとの思いだ。


 集まってくれた里の住人たちと一人ずつ別れのあいさつを交わしたのち、少年は最後にアシュヴァルに向き直った。


「行ってくるね、アシュヴァル」


 短く告げて、前腕を突き出す。

 教えてもらった彪人流のあいさつだ。


「そっちじゃねえよ」


 アシュヴァルはそれに応じることなく、左右に小さく首を振って答える。


「あいさつはあいさつでもよ、そいつは戦士のあいさつだ。強さをたたえ合ったり、無事を確かめ合ったりするときにするやつだよ。今は——それじゃない」


 そう説明したかと思うと、彼は少年に向かって半歩足を踏み出す。


「だから、いいか。こういうときは——こうすんだよ」


 出し抜けに身を屈めたアシュヴァルは、自らの額を少年の額に軽く触れ合わせた。

 突然の行動にどう応じていいかわからず、激しい困惑を覚える。


「こ……これ——」


 気恥ずかしさと面はゆさに頬を紅潮させつつも、その行為から感じた既視感の正体に思いをはせた。


 記憶をさかのぼる。

 半年以上も前、初めて彼と——アシュヴァルと出会った日のこと。

 何も知らずぶしつけにも彼の顔に手を伸ばし、そして姿勢を崩して互いの額を打ち付け合ったことを。


「こいつはな、俺たち彪人に伝わる……あれだ、親愛の——あいさつだ」


 どこか落ち着きのないアシュヴァルの言葉によって、つかの間の回想から引き戻される。

 少年は自らの額をさすりながら、居心地悪そうに顔を背けてしまう彼を見上げ、そしてその口にした言葉を噛み締めるように繰り返した。


「親愛……」


「そうだ」


 顔を背けたまま目線だけで少年の顔を見下ろすと、アシュヴァルは頬から伸びる洞毛ひげをつまみながら照れくさそうに呟いた。


「——だからよ、誰彼構わずすんじゃねえぞ」

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