第百八話 訣 別 (けつべつ) Ⅱ
「旅に出たい……か。お前らしいっちゃお前らしい考えだよ。——ああ、俺も賛成だ。お前は世界を見たほうがいい。洞穴や山ん中みてえな狭っ苦しいところで満足するんじゃなくてよ、広い世界に出てもっといろいろと知るべきなんだ。あの娘とならよ、お前とよく似たあの娘と一緒なら——きっとお前の知りたいことも知れんじゃねえかって俺も思うよ」
正面を見据えたまま言うと、アシュヴァルは「よ」と勢いを付けて石垣を飛び下りる。
首筋をさすりながら数歩進んで足を止め、ゆっくりと振り返った。
「だからよ、お前の隣はもう俺じゃねえんだ。俺は——ここに残るさ」
「アシュヴァル……」
少年もまた転げ落ちそうになりながら石垣を飛び降りると、アシュヴァルの元へと駆け寄った。
彼は後ろめたそうに視線をそらし、謝罪の言葉を口にする。
「約束——だけどよ、破ることになってすまねえと思ってる。最後まで面倒見るって言い出したのは俺のほうなのによ、途中で引っ込めちまって悪かったな」
「そんなこと……! そんなことない!! じ、自分こそ——」
「わかってる。お前の考えてることは——わかる。俺も同じだからよ。今の俺たちは一緒にいるべきじゃない。……そうだろ?」
「そ、それは……」
激しく左右に首を振って応じるが、続けて放たれる言葉に思わず押し黙る。
沈黙を肯定と捉えたのか、アシュヴァルは静かにうなずいてみせた。
「この際だから正直に言うぜ。俺は……お前のことを利用してた。弱っちくて小さい自分がたまらなく嫌で、それでこの里を逃げ出して——誰も俺のことを知らない場所で強いふりをしてた。山の奴らが俺のこと怖がってるのが面白くて、いい気味で、それで調子に乗ってたんだ。だからお前を拾ったのも、気まぐれっていうより自己満足の道具としてだったのかもしれねえ。お前は俺のことをさ、強くてでかくてすごいって慕ってくれた。……満たされた思いがした。欲しかったのはこれだって思ったよ。面倒事抱え込んじまったなあって考えるときもあったけどよ。それでもまあ——なんだ、嫌だって思うことはなかったな。だけどよ、それがだ——」
そこまで話しておもむろに手を伸ばすと、アシュヴァルは厚みのある掌で少年の頭をなでる。
「——お前と一緒にいるうちにさ、悪くねえっていうか、うれしい、楽しいって思うことが増えていったんだ。怖がられるよりも頼られるほうが、逃げられるよりも寄ってこられるほうが気分がいいって感じられるようになった。あの火の消えたみてえな酒場も抗夫連中でいっぱいになってよ、うっとうしかったけど——意外と悪くなかった。全部お前のおかげだ。お前がくれたもんだ。だから……感謝してる」
アシュヴァルは手を引き、自らの掌をじっと見詰めながら続けた。
「いつからだったか、割とすぐ——なんだろうな。お前が幸せだったらいい、お前が落ち着いて暮らせていけたらいいって本気で考えるようになった。いつかよ、連れ——って言ったよな? あれもまあ本心っちゃ本心なんだけど、ちょっと違うんだ。お前は俺にとって連れだけど、頼りない弟でもあるし、一緒に笑い合える相棒みてえに感じることもあった。見た目もなんもかも違う俺たちだけどよ、そんなことは些細な違いでしかねえのかもって思わせてくれたのもお前だよ。……でもだ、頼りなくって俺がいなくちゃなんにもできないお前がさ、少しずつ変わっていくのがわかったんだ。誰かのために必死になるお前は強くてよ、このままじゃ置いていかれちまうのは俺のほうだって——そう思った」
「そ、そんなこと……ない!! じ、自分は——何もできなくて……まだ……」
消え入りそうな声で呟く少年を見据えると、アシュヴァルは広げた掌を固く握り締め、毅然とした口調で言い切った。
「俺はもっと強くなる。里長にも負けないぐらい強くなって、それで——いつかまた必ずお前に会いに行く。だから俺が本物の強さを手に入れるその日まで、あのときの約束は待っていてほしい」
すがすがしささえ感じさせる口ぶりで、アシュヴァルは決然として宣言する。
それが完全なる決別の表明であることを理解した少年は、歯を噛み締め、唇を引き結び、自身も静かに思いを語った。
「君が隣にいたら、きっとすぐに頼ってしまう。自分も強くならないといけないんだ。ローカのことを守れるように……ううん、違う。それだけじゃ足りないんだ。アシュヴァルがしてくれたように、自分もたくさんの人たちの力になりたい。だから……強くなるよ。本当の意味で君に……連れだって——友達だって思ってもらえるように。自信を持って隣に立てるように——強くなるから……!! だから——その……一緒にいられないのは嫌いになったからじゃなくて——」
顎先が胸元に触れるほど深くうつむき、衣服を握り締めながら訥々と語る。
再び掌を差し伸ばすアシュヴァルだったが、頭に触れる直前ではたと手を止めると、自らの背に隠すように引っ込めた。
「わかってるよ、んなこと」
「ね、アシュヴァル。本当はね、君と一緒がいい……! ずっと一緒に暮らしたい……! でも——駄目なんだ……それじゃ——駄目で——」
「駄目じゃねえって」
途切れ途切れの震え声で思いを伝える少年に対し、アシュヴァルはいつになく物柔らかな声音で呟いた。
次いで星空を仰ぎ見るかのように頭上を見上げた彼は、おもむろに振り返って背を向けた。
「今生の別れってわけでもねえんだ。またすぐに会えるさ。そのときが来たら一緒に——な」
天を仰いだまま言うと、アシュヴァルは未練を残した口調で続ける。
「でもよ——」
そして両手を自らの後頭部に添え、かすかに震えを帯びた声で呟いた。
「——寂しいもんは……寂しいよな」
「……うん」
湧き上がる万感の思いを込めてうなずき、両手で顔を拭ってアシュヴァルの背を見詰める。
次に会うときはその背に負われ、寄りかかり、追い掛けるだけではなく、隣に並んで歩くことのできる自分でありたい。
夜の闇の中でも星明かりを受けて映える黄白の地に黒の縞模様、忘れようにも忘れられない鮮烈で印象的なその背中を、目と胸の奥に深く強く焼き付けた。
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