第二章 自由市場(じゆういちば) 篇
第一節 新天地を求めて
第百十一話 壮 途 (そうと)
「エデン」
背中越しに聞こえた言葉が、自身の名であると気付くのに寸刻の間を要した。
足を止めて後方を眺め、来し方を顧みるかのように思いを巡らせていた少年は、先を歩む少女の声を聞いて振り返る。
聞き慣れない言葉、少女の付けてくれたそれを自身の名と定めたのは数週前のことだった。
少女は進んで呼んでくれるが、その名で呼ばれることにいまだ慣れないのは少年のほうだ。
呼ばれていることに気付かずに聞き流してしまうこともしばしばで、それが自分自身の呼び名としてなじむには今しばらく時間がかかりそうだった。
「——うん」
返事をして先を行く少女の元へ駆け寄ると、茫漠として感情の捉え難い視線で自身を見上げる彼女に向かって微笑みかける。
「随分遠くまで来たんだなって」
言って少年は——エデンは今一度後方を振り返った。
正確な日数は数えてはいない。
だが大恩を受けた
向かっているのは、彪人の里から西の方角に位置する自由市場という名の大集落だ。
一度は身を隠すために向かうと決めたそこを、エデンは少女と——ローカと相談した上で改めて次の目的地に定める。
交易が盛んに行われ、商売のために数多くの
高地に位置する彪人の里から続く山道を抜け、深く切り込まれた渓谷に架かるつり橋を渡った。
足掛かりのない切り立った崖に木板を渡して設えた細く険しい桟道を進み、流れ落ちる渓流に沿って山地を下っていく。
岩だらけの荒れた道は徐々に勾配の緩やかな砂礫の道へと変わり、目指す場所が着実に近づいていることを感じさせた。
「こっち」
「——ま、待って……!」
やにわに手を引かれる。
いまだ追想の中にあった少年は、少女の突然の行動によっていや応なく現実に引き戻されていた。
ローカが思い立ったように動き出すのは今に始まったことではない。
旅立つよりも以前、二人で彪人の里を逃げ出そうとしたそのときから、同じような状況は度々あった。
常人には見えない何かが少女には見えており、その不思議な力に幾度となく窮地を救われてきた。
救われたのは、自身だけではない。
彼女の力があったからこそ鉱山の危機を知り、彪人たちの協力を取り付けてそこに暮らす人々を助け出すことができたのだ。
こうして迷うことなく目的地に向かって進んでいけるのも、恐るべき異形の襲撃者に遭遇せず無事に旅を進められているのも、すべてはローカの導きのたまものだ。
いつ頃現れ始めたのかも、どこからやってくるのかも知る者はいない。
異種が現れるようになってからの人の歴史は、ある意味で戦いの歴史でもあったと聞いている。
強き身体に戦う力を有する種は武を磨き、そうでない者たちは逃げることや群れることで強大な力を持つ異種に対抗してきたのだという。
異種に遭遇したとして今の自身に何ができるかとは、何度も繰り返してきた煩悶だった。
戦う武器は手の内にあるが、満足に扱えるすべを持ち合わせていないことも併せて理解している。
硬質な異種の外皮を刺しうがち、たやすく斬り裂くほどの切れ味を有する——腰に差している剣はそんな身の丈に合わない代物だ。
しかしながら彪人の里長ラジャンから託されたそれを振るうには、あまりに未熟過ぎる。
振るうことで逆にローカを危険にさらす恐れがあるようなら、今は抜かずに彼女の導きに従うほうが賢明とであるとエデンは自覚していた。
その夜も日が落ちる前に、ローカの見つけてくれた岩陰で野営の準備を始める。
名を呼ばれることにはいまだ不慣れではあるものの、旅に必要な技術は徐々に習得しつつある。
発火具を使って手早く火を付けて食事の準備を行いながら、初めて火起こしの方法を教えてもらった日のことを思い出していた。
あれは鉱山に現れた異種の討伐を終え、アシュヴァルとシェサナンドにローカを加えた四人で彪人の里へと帰る道中のことだ。
思えばアシュヴァルは、自身がその手を離れて旅立つことを予見していたのかもしれない。
記憶を欠いた状態での彷徨の果て、最初に出会ったのがアシュヴァルだった。
過去と記憶とを持たぬまま目覚めて以降、常に傍らにいてくれ、変わりない親愛をもって守り続けてくれたかけがえのない存在だ。
友人、恩人、兄弟——その関係はどんな言葉でも表し尽くせない。
まさかアシュヴァルに己の意志で別れを告げることになると知ったら、彼と出会ったばかりの頃の自身はどう思うだろう。
きっと不安と心細さで耐えられなかったに違いない。
しかしいつまでも彼に守られたままではいられないと決意するに至ったのは、守るべき存在、守りたいと思わせる誰かの出現だった。
アシュヴァルのように誰かを守ることのできる強さを手に入れたとき、対等な関係性の中で改めて隣に並びたい。
再会の日を期し、彼に別れを切り出したのだ。
一方でアシュヴァルも、皆が優れた戦士である彪人の中にあって最強の名をほしいままにする里長ラジャンの下で強さに磨きをかける道を選ぶ。
彼もまたさらなる成長を望み、将来の再会を誓ってくれたのだった。
火にくべていた小枝がぱちりとはじける音を聞いて我に返る。
目の前の鉄製の小鍋の中では、出立に当たって彪人たちが持たせてくれた携行食がゆだっている。
白く濁っていた干し肉が半透明に戻ったのを確認すると、椀によそったそれをローカに差し出す。
うまみの染み出した戻し汁も、二人で分けて余すことなく飲み干した。
携行食とともに、ローカの採取してくれた果実を切り分けて食べる。
彼女は食べられる野草や木の根などをよく見つけ、二人の食事にはそれらがよく並んだ。
エデンも彼女に負けじと見慣れぬ果実を見つけてきたことがあったが、それを指してローカは小さく左右に首を振った。
取ってきた果実を半ば意地になって頬張り、強烈な渋味と酸味にせき込むエデンを見て彼女はおかしそうに笑っていた。
毎晩、二人身を寄せ合って眠り、目覚めては手を取って川沿いを下る。
標高が下がるにつれて肌寒さも幾分か和らぎ、一日に進むことのできる距離も少しずつ伸びていった。
山々に源を発する幾つもの渓流が寄り集まり、やがて支流として本流へと流れ込む。
天然の運河として用いられるこの大河はさらに多くの分流を呼び込み、その結節点に交通と運輸の要衝となる自由市場を形作ったのだと教えてくれたのもアシュヴァルだった。
川幅の広がりとともに流量を増していく大河は、遠目に見た限りでは穏やかだが、近くに寄れば力強い轟きが水流の激しさを顕著に現す。
足を滑らせて落ちでもしたら泳ぎの得意ではない自身など一気に流されてしまうに違いない。
大河を横目に歩きながら、そんなことを考えて身震いをした。
そうして大河に沿って歩く中で、数歩先を進んでいたローカが突然走り出す。
彼女は路傍の岩に飛び乗ったと思うと、後方を振り返りながら指を突き出して進行方向の先を指し示した。
はやる心のままにローカの元に駆け寄り、彼女と入れ替わる形で岩の上によじ登る。
「あれが——」
思わず声が漏れる。
岩の上から最初に見えたのは立ち上る幾条もの白煙、次に目に映ったのは大河に沿うようにして乱雑に立ち並ぶ建物の群れだった。
大きさも形状も色合いもふぞろいだが、どこか奇妙な統一感の感じられるたたずまいに、その場所こそが幾多の種を抱え込む度量と懐の広さを備えた大集落であることを確信していた。
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