第二話 卑しい『街』で
初めてこの『街』へ来たのはまだ幼い頃、母の仕事の帰りに通りかかった時だった。
ここ、『街』は市街地から微妙に離れた場所の、奥まった建物群の中に隠れている。この『街』とは母の使っていた呼び名だったが、一般的に言えばそこは所謂「夜の繁華街」と呼ばれる場所の一つだ。
初めて来たのが幼い時だった故にそのインパクトは半端じゃなかったが、今でも何故か、訪れるたびにどこか新鮮味を感じる気がする。
何とも不思議な場所だ。
ここでは夜遅くまで、活気ある様々な色の光が煌々と輝き、ガヤガヤワイワイとした人々の喧騒が、派手に染め上げられた夜闇に滲み込んでいる。その、どこか妖艶な雰囲気のある華々しい電光の彩どりは、私の目には夜闇の中で、まばゆいまでに「生き生きとして」いるように映った。
卑しくはあったが、決して下品な場所ではなかった。
......まぁ確かに、私の好みの静寂な闇夜の中とは、正反対の場所ではある。
だが私がこの場所を好きなのには、実は別の理由があった。
別に、夜に営業している店に行くのが好きだからではない。
私がこの『街』を好きな理由、それはこの場所が......闇夜に上手く溶け込んでいるからだ。
例えば通りの真上、高い建物の間に挟まって見える外界の闇夜の漆黒と、内界のきらびやかなネオンの明かりとの、何と相性のいいことか。独特のミステリアスな雰囲気を醸し出すその空気の、何としっくりくることか。
加えて、建物と建物や店と店との間に、電光看板の真下で影になっている路地の端に、その他『街』のいたる所に古くから棲み着いている闇の深さが何とも言えぬ美しく皮肉なコントラストを紡ぎ出し、いくら眺めていても見飽きることはない。道を行き交う人々のゆっくりとした歩みも昼間の忙しなさを嘲笑うようで、その雑踏には私も素直に好感を持てた。
所謂、敵の敵は味方というやつだ。
加えてここでは、自分自身の身の危険なども全く感じなかった。
......まぁ多分、私くらいの歳の娘が何も知らずに迷い込めば、その末路などしれているでしょう。
けれども、私は違った。幼い頃からここに馴染み、幾度となく母がそういう手合に「対処」するのを見てきた私にとって、ここの卑しい雰囲気など敵ではなかった。
それに知人曰く、私は無意識に「異様な雰囲気」を発しているそうなので、多分そんな私に目をつける不審者などそもそもあまりいない、というのもあるだろうけれど......。
それもあってか、この『街』は様々な意味で私にとっての「闇の中の輝き」だった。
ここでなら、人前でも自信を持って歩けた。何故なら常に、夜闇が側に居てくれるから。すべてを受け入れ、見守ってくれる心強い存在が一緒にいてくれるからだ。
......昼間では、そうはいかない。
私は、......光が怖い。
別に、私はゾンビなんかな訳じゃないけれど、やはりぎらつく日光というものは好きになれない。時に、私は自分の影に助けを求めることさえある。
私は......実はとても臆病なんだ。光に怯える一人のちっぽけな娘。それ以上でも、以下でもない。
......でも、ここでは違う。
この場所は、私の存在を許してくれる。それだけじゃない。私はここの闇と、とても密接な関係にある。
もしかすると奇妙に聞こえるかも知れないが、この『街』はもはやある意味、私の「テリトリー」だった。
一言断っておくけれど、決して厨二病な訳ではないよ......?
嬉しいことに『街』の雰囲気は、最後に訪れたときから全く変わっていなかった。
非常に喜ばしいことだ。最近は、雰囲気が「改善」されてしまった場所も多いと聞くし......。そんな厳しい風潮の中でも、この『街』が力強く、しぶとく生き残っているのは、私としても嬉しかった。やはり『街』の醍醐味は、このミステリアスな雰囲気にこそあるからね。
そこで私は、自身の身を雑踏の流れるに任せた。
歩道に溢れる様々な年代の男女に混じり、お互いに肩を触れ合わせるようにしながらゆっくりと歩みを進める。カラフルな人工の光を一身に浴びながら、その景色が流れていくのをただただ楽しんだ。その渦の中にいると、思わず自分の空腹のことさえも忘れそうになる。
良い雰囲気だった。
......だがたった一つ、私が避けていたものがある。
それは、居酒屋や焼肉屋といった類の店。
理由は単純で、店の周囲に漂うムワッとした臭いが嫌いだから。うちの家系は代々油ものに弱く、私などは焼肉屋の排気の臭いを嗅いだだけで頭がクラッとする。他にもニンニクの臭いなど最悪。全く以て許しがたいよ。
昔、小さかった時に一度、不用意に近所の焼肉屋の前を通りかかってしまったことがあった。その時、誤って店の排気をモロに吸い込んでしまい、何と私は気を失ったらしい。一緒に歩いていた母が、私をおぶって家まで連れ帰ってくれたそうだけれど、私は翌日までひどい頭痛が続いた。さらに、服に瞬時に染み付いた匂いが狭い家中に拡散し、母まで軽い頭痛を覚える始末となった。
いやはや、あのときは本当に苦労したな......。
故に私は、今では半ば恐怖症といったレベルでそのような類の店を避け続けている。
......あと、ま、まぁ?......単純に年頃の女の子としての潔癖症があるというのも、多分事実のような......? ......いや、わざわざ言わせないでよっ......!
とはいえ、......お腹が減っているのは事実として変わらないわけで......。
私の視線は自然と、瞬く光を離れ、その店並みへと向かっていった。
前回来たときは『街』のはずれにあるカジュアルな喫茶店が気に入ったのだけど、どうもその店は今や潰れてしまったようだ。正直『街』の雰囲気にはマッチしてなかったけれど、洒落ていて小綺麗な良い店だった。本当に残念ね、私にとっては貴重な一軒だったのに......。
さて......、じゃあこれから一体どうしようかな......?
横断歩道の信号待ちをしながら、私がそんなことをぼんやり考えていると......――。
「やぁ」
いきなり、背後から誰かに声を掛けられた。
正直に言って、私は内心かなりビクッとした。しかし、それをおくびにも出さずに、平然とした態度を意識してサッと相手を振り返る。
声を掛けてきた相手は、スラリとした高身長の青年だった。歳は私と同じか......、いや、彼のほうが私より、一つか二つ上でしょう。電光看板の逆光で顔はよく見えないけれども、整った顔のパーツの位置で、一目で美男子だと分かった。少しばかり伸ばした髪をクールに撫で付け、カジュアルな衣服を身に纏っているといった出で立ちだ。その自信に満ちた態度を見るに、この『街』には来慣れているのだろう。まぁある意味、私と同じね。
でも多分、目的の方は、私とは全く違うんだろう。
......私がこの『街』に来て、最も最初に学んだことが一つある。
見た目の良い奴ほど、信用しちゃいけないということだ。
彼の目的なんて、端から見え透いている。今日ばかりは、そんなことにならないように、と願っていたのだけれど......。
「もし時間があれば、一緒にどうかな?」
......俗に言う「ナンパ」ってやつよコレは......。
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