夜風
Slick
第一話 彼女の独白
私は、一本の小道を歩いている。
周囲は暗闇の中。微かな光だけが、私の行く先の道を照らしている。
ここは誰も、何もない世界。
私の細いシルエットだけが、闇の中を突き進んでいる。
だが、正面から一陣の風が私のすぐ横を吹き抜けた。その風の支流が私の前髪を優しく撫ぜ、そのまま背後の闇へと消えていく。
私は思わずその風の奔流を追って、振り返った。だけれども、そこにあるのは暗い夜道のみ。先程の夜風は既に、夜闇の中へと逃げ去ったあとだった。
私は昔から、夜に一人で出歩くのが好きだった。
......読んでそのまま、文字通りの意味で、だ。
決して「夜遊び」という意味ではないので、ご注意を。
よく人の好みはその人それぞれというが、これについてはまさにその通りだと、私は思う。
私が好きなのは、日中の雑多な騒がしさがすっかり消え失せた夜半の、ひっそりとした時間帯。そこで静寂に包まれた小道を一人、その沈黙を噛みしめるようにして歩くのが、私はたまらなく好きだ。
私が田舎娘なこともあってか、知り合いからは「奇妙な趣味だ」と言われたけれど、私はそうとは思わない。
これは決して「夜遊び」などではないのだ。決して。
私にとって、毎晩の夜の一人歩きの時間は、とても......素敵なもの。
私の思うに、夜の闇というのは不思議なもので、例え同じ場所であったとしても、まったく違う所のように思わせてくれる力があったりする。
あまり知られていないかもしれないが、夜闇の中には、昼間のように醜くぎらつく日光に照らされていない、黒々とした克明すぎる世界がひっそりと存在している。そのシャープで甘美な剝き出しの空間を歩いていると、私は不意に、眼前のひんやりとした闇がこちらのことを全て見透かしているような気がすることさえあった。
もし、よそのヒトが聞いたら奇妙な厨二病に思うかもしれないけれど、当の私にとっては大真面目な話。
来月で18になる今の今まで、物心ついてからこの方、私は習慣としてこの「夜の散歩」を欠かしたことは、一度たりともなかった。
......かつてはよく母に連れて行ってもらったものだけど、その母はもういない。
そうして今も私は、夜の小道を歩いている。
いつも通り行き先は特に決めずに、ただ揺蕩うようにしてゆっくりと歩みを進める。長い黒髪を溶き透かすと、自分が夜に溶け込んでいく感じがした。夜闇の世界を彷徨いながら日中の疲れを癒し、当てもなくぶらぶらとあちこちを見て回るのが、私の一日の最後のルーティーンだ。
実を言うと、昔から眠気というものはあまり感じない体質だった。
さて、今晩歩いているのは家の近くの住宅街、そのひっそりとした裏路地だ。市街地からそう遠くないこともあってか、完全に人通りの絶えているわけでもなく、ぽつぽつと並ぶ街灯がなんとも物悲しい雰囲気を放っている。不審者も他の場所ほど溜まってはおらず、お気に入りの場所の一つだった。
静寂の包み込む路地の上、私の靴がアスファルトの舗装を踏む湿った音のみが耳に入ってくる。道の両脇に引かれた白線は、私の足を前へと誘っているようだ。工事中の空き地に鎮座しているオレンジ色のショベルカーは、昼間と違って身じろぎもせず、彫刻のように固まっている。
全ての物が「美しい」状態で封じ込められていた。
......こんな風に夢見心地にさせてくれる落ち着いた雰囲気こそ、私が夜の世界に求めているものだった。
......こんな風にしてリラックスし、無心になって歩いていると、ふと昔の母のことを思い出すことがあったりもする。
私の母は......、私が幼いころに、病で亡くなった。
母はもともと身体が病弱だったうえ、幼かった私の世話でさらに神経をすり減らしていたんだろうなと、今になれば想像がつく。
今や、母の記憶は最早おぼろげな断片しか残ってないけれど、それでも毎晩、幼い私を連れて一緒に歩いてくれた「夜の散歩」のことだけは、その手のぬくもりまでをもはっきりと覚えている。
当時はいつも疲れ顔を絶やさなかった母だが、毎夜この時だけは、娘である私の手を引いて優しい笑みを浮かべていた。
今思えば、とてもやさしい母親だった。
......でも、その後――。
............――何でだろう? ......いつももうここまで考えると、自分の孤独が身に沁みてきて、思わずこの先のことを考えるのをやめてしまう......。
もはや......母のことを思い出せないのか、思い出したくないのかの区別さえもつかない。
......多分きっと、その両方だろう......。
そんなことを考えながら、私はふと立ち止まった。
涙は出ていないが、もしかしたら目が少し赤くなっているかも知れない。
......そしてそんな私を、夜闇はじっと黙ったまま、無言で受け入れてくれた。
――急に眼前の闇にパッと閃光が走り、私は思わず反射的に目をつむった。
そして同時に体を身構え、目の前のライトの持ち主から逃げる体勢を取る。
......今までも何度か「散歩」中に怪しい男と出くわしたことは、まぁあったことにはあった。
だけど、私がこの「散歩」習慣を始めて、もう何年にもなる。
もうそんな手合に捕まる程、私は馬鹿じゃない。脚力には自信があるし、それにいざとなったら、――まぁ、わざわざ口に出さなくてもいいか。「対処」の仕方は心得てるし。
でも、もし相手が警官だったりしたら、これはこれでさらにタチが悪いよ。別に今、何かやましいことをしているって訳ではないけれども、常識的に考えれば私の歳の娘がうろついていいような時間じゃないし......。最悪補導なんてされた日には、もっと悪いシナリオも考えうるよね。
どっちにしても、私はライトの相手から逃げる用意をした。身体に一気に緊張が走る。
ところが――。
「ブロロローー」
重い回転音が私の横を通り過ぎ、自動車の黒い車体が夜風を切って、私の長い髪をたなびかせた。熱くまばゆいヘッドライトの光が目の前を素通りすると、ほんの一瞬、私の白い顔――知り合い曰く「綺麗」と「可愛い」の中間くらい、らしい――を、闇夜の中に照らし出す。
......何だ、全く大したことじゃなかった。
ただ、一台の車が目の前の角を左折して、通り過ぎただけだ。
思わずホッと息をつくと、一気に肩の力が抜けた。さっきまでの一瞬の緊張で高鳴った心臓を強いてほぐそうと努めながら、肩越しに過ぎ去る車に顔を向けた。
「全くもう、ドッキリするじゃない......」
そう、ボソッと呟くと、再び前を向いた。
そして片足を上げて――。
「――ギュルルルゥ〜......」
......唐突に耳に入ったその音が、自分のお腹の鳴る音だと気が付くまでにはほんの少し時間が掛かった。
「っ!?」
思わず反射的に自分のお腹に手を当てると、バッと後ろを振り向く。
......大丈夫、誰もいない......誰にも聞かれてない、ふぅ......。
再びドキッとした心臓にもう片方の手を当てる。
......って、さっき振り返ったばっかりだから、そんなのわかるでしょ!
............うぅ〜、多分、顔が真っ赤になっているんだろうけどっ、仕方ないじゃない......っ!
〜っ、わ、私だって、......れっきとした一人の乙女なんだから......っ!
とはいえ、......。
「お腹が、空いたな......」
思わず口に出して呟くと、改めて自分の空腹を感じた。
思い返してみれば、今日は休日だったからか、今朝から何も碌なものを食べていない。
まぁ今からでも、一人暮らしの家に帰れば冷蔵庫に何かはあるだろうけど、我儘なお腹の虫は今すぐ即座の栄養をお望みだ。
なのによりによって、今夜は物思いに耽っていたせいで、少し遠くまで歩いて来ちゃったし......。
ん〜、だったら......。
「......っ、そうだ! だったら今日はこのまま『街』に行っちゃおう!」
私は、ふとその場所の存在を思い出すと、頬に人差し指を当て闇夜の中で一人微笑んだ。
時間を見ると、夜の10時を回ったばかり。ちょうど『街』がこれから一番に活気づく時間帯だ。
そこまで考えれば、後は時も金なりよ!
私はいそいそと、先程と打って変わって生き生きとした足取りで――実際、スキップに近かったかな――、次の角を曲がった。
あの『街』に行けば、夜まで開いているカジュアルな喫茶店とかで、軽食でも摂れるだろうし!
......心なしか、ウキウキとした高揚すらをも感じる。あの懐かしい『街』に行くなんて、ホンットに久しぶりだからね、フフッ!
......頭上では、赤い月が闇のベールを背景に煌々と輝いていた。
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