鋼鉄のゆりかご、あるいはサクラを夢見るNの塔
雨海月子
第1話 グランド・ゼロ ―――カナとミリーのゼロ地点
そうして人類は永遠の眠りについた。原因はありふれた戦争、疫病、飢饉、遺伝子汚染、その他様々な問題。言い出しっぺは、高度な医療でいくらでも寿命を延ばせる様になった富裕層からの「痛みも苦しみもなく、メンテナンスの不要な体になりたい」というものであった。だが技術革新はさらなる後発品ジェネリックを生み出し続け、気づけば人々の大半は肉体を放棄して精神の存在になった。皆、肉体的な苦痛から逃げたかったのだろう。
今の人類は巨大なサーバー《塔》に暮らし、その維持保守を機械や残った酔狂で頑迷な一部の旧人類(今では彼らはサーバー内部の民と体も心も別種になっていた)が担っている状態である。少なくともそう言われるようになって、気づけば、数百の年月が過ぎていた。
『ねぇカナ、またいつものところで遊ぼうよ』
『えー、あそこにいるのが見つかったらまた怒られるよ…ついこの間も行ったばかりでしょう? 早すぎない?』
私は目の前の友人が可聴域ギリギリの
『だって、あそこには―――』
「ねぇミリー、その髪マテリアの色はどうしたの? この間のもよかったけれど、今回のはもっと素敵じゃない」
私があえて開放通信オープンで話しかけると、彼女は一拍遅れてから、私の話に乗ってきた。
「この色はこの間見た
白にうっすらと赤を混ぜた、少し独特の色に染めた髪を揺らして彼女は微笑んだ。彼女なりのアレンジなのか、根本は少し濃い色をしていて段々薄くなっている。話を反らせたことに安堵して、サクラという花のことをミリーに教えてもらった。
草として地面に生えるのではなく、春になれば木の葉のすべてが花に置き換わったような姿を見せる植物であること。かつて地表で日本と呼ばれていた地域で、自分達の象徴として扱っていたこと。花が咲く時期にはそれを見るためだけに、人々がサクラの元に集まっていたらしい。
「自分達の足と目で? ドローンとか写真とか動画もあるのに?」
「自分達の足と目で。なんでも、直接見ることに意味がある、と思われてたんですって」
わざわざ肉体疲労を得てまで、写真にも映像にも残っているものを見ようと思うことは信じられなかった。そもそも人が集まるということは、情報と人の多いところに飛び込み自らもその一部になるということだ。おまけに
「わかんない……昔の人間、わかんないわ」
「今でも似たようなものは塔で見れるけれど、本物のサクラが地表に残ってるかは不明ね。塔のあれはもう、別物だし」
聞けば、ミリーがサクラのことを知った第一図書館の前にあるかなり大きめの樹のオブジェクト。あれが春になるとピンクになるのは、サクラを模倣したものなのだという。
「うっそ。あれ、春になると葉がピンクになる不思議な樹じゃないの?」
「葉じゃなくて、本当は花なんですって。ほら、この塔があるのは昔の区分で日本になるから」
あー、という納得の声をなんとなく飲み込みながら、「なら図書館に見に行かない?」と彼女を誘った。言われているうちに見てみたくなったからだ。もちろん、合法の範囲で。けれど彼女は首を横に振って、それよりも『あそこ』でサクラを探したいのだと言い出す。
どうやら、話を反らせたと思っていたのは私の勘違いだったらしい。結局、話題はここに戻ってきてしまった。
「今、自分で言ったんじゃない。図書館にあるって」
「けれどあれは、本物じゃないわ。本物を図鑑でしか知らない人が、アップデートしたものよ」
「仕方ないじゃない、本物を知る人の作ったマテリアルなんて古すぎてフォーマット規格外でしょうし。それでもアップデートする人が工夫をこらしてなんとか残そうとして、それがあのサクラなんでしょう?」
初めて引き合わされた幼い頃から、ミリーはそういう古いものごとの好きな子供だった。最初の友達としてマザー・システムに推奨された彼女との関係は、その想定通り長く続いている。
「あなたの昔かぶれは相変わらずね。地表に行ける研修とかあったら、絶対行ってたんじゃない? ほら、昔はできたって噂だし」
「もちろん。どうしてなくなっちゃったのかしら」
彼女はどこか誇らしげでさえあった。表情や動作に特異なエモーションはついていなくても、長い付き合いだからかすかな声色の違いでわかる。そして彼女も、私がわかっていることを理解しているはずだ。
「きっと、大人になったらわかるわよ。あ、あと大人になったミリーについて、わかることはもう一つあるわ」
「なぁに?」
「サクラを昔の姿に戻そうとする!」
「もちろん!」
この塔でサクラと呼ばれている樹木オブジェクトは四月一日になると、一斉に葉っぱがミリーの髪の色よりも濃いピンクに変わる。それは五月一日までの一ヶ月限定で、終われば他と同じ青々とした葉っぱが茂る木に戻った。つい昨日、例年通りピンクになったばかりである。サクラは公共施設の前に必ず設置されているから、四月の間はお役所がすぐに見つかる。わざわざ行く必要がある公共施設の方が少ないのだけれど、他の階層から来た人には必要らしい。
「ねぇまた行こうよ、ちょっとだけでいいから!」
「もー……本当に、言い出したら引かないんだから」
結局ミリーに引っ張られるようにして向かったのは、先日の『探検』中にうっかりと入りこんでしまった廃棄エリアだった。マザーの目の届かない、情報が更新されなくなった古い場所。時折そういう場所はあって、迷い込んで彷徨うことになった人のうわさ話は沢山あった。大半はすぐに出られる小さなものだが、迷い込んだら二度と出られない場所があると。古くは、そういった話を『怪談』と言ったらしい。ミリーはかっこつけだから、「塔の中に残った唯一のオカルティズムが廃棄エリアにある」とずっと語っていた。
廃棄エリアに入り込むための方法は、比較的信憑性のあるものでもいくつかあった。例えばエレベーターで、わざと存在しない場所を指定する。大体は動かないが、動いてしまう時がある。こういうのはたいてい、廃棄されてから時間が経っていない場所だ。
「よし、今日も消えてなかった! ほらこっち!」
「もー…仕方ないなぁ」
ここはそれよりももっと古い、消えそびれた世界の断片だった。ミラーリングとか、バックアップとか、そう言ったものの残り滓。特定の仕草で偶発的に迷い込んでしまう、本来ならばすぐに報告をしないといけない場所。
ついさっきまでいた明るく賑やかな町と違って、ここには音がない。光も弱い。足元を構成するオブジェクトのひとつひとつが脆く、頼りなく感じる。そもそも外装が一部剥げているから、穴だって空いている。本来ならすぐに、マザーが直してくれるはずの穴。それがここにはあって、青白い光をぼんやりと放っている。この青は、廃棄エリアの色だ。
「でも、ここの図書室は面白いものがたくさんあるんだもの。それにここを見つけてくれたのは、カナでしょう?」
二人だけの秘密だもの、と笑うミリーの声も、ここだと聞こえ方が少し歪む。音声さえ、この場に敷かれた時間には合わないのだ。アングラな噂話を信じたミリーではなく私が廃棄エリアに入れたのは、噂話の『儀式』の手順を私が間違えたからなのに、彼女は私の手柄だと言って喜んだ。手を引かれて、青ざめた路地から屋内に入る。
壊れた世界で入れるとわかっているのは、私達が図書室と呼んでいる小さな部屋だけだった。他の扉は何度か開こうとしたものの、壁のように固い感触しか返ってこない。
「あ、この本読めそうだよ」
「相変わらず開いてみても文字化けが酷いね……でも、確かに他の本より少しマシだね」
廃棄エリアの本はどれもこれも古く、今使われているものとは違う文字を使っている。もうこの文字コードもとっくに使われなくなっていて、今の私たちの目には古語とも違う文字化けにしか見えない。けれどその日にミリーが持ってきた本は文字化けが薄く、授業で習った古語の知識と照らし合わせれば他の本より読みやすそうだった。
「何だろう、これ……『人類……空間……移、住』? 全文はすぐには読めなさそうだけど、メモしておいたら後で解読できるかも」
「写真…はエラーの位置情報ついちゃって破損すると思うから、メモした方がいいんじゃない? この間も、写真が消えちゃったって言ってたじゃない」
そうだったね、と言いながらミリーが高速でキーを叩き始めた。本の内容をメモしているようだけれど、相変わらずタイピングが早い。文字で化けているところは空白や近いものを当てはめながら書いていくミリーの顔は、とても生き生きとしていた。私はというと、ミリーほど夢中になれないなりに、彼女の手伝いをしようと図書室をぐるっと見回している。
今となってはどのような情報が保管してあったのか一見してよくわからない、大量の本。外装マテリアルによる視覚情報が一部剥がれ落ちて、薄青い光が差し込む窓。窓の外に作られた風景は、初めて来た時から夕方のままだ。きっと何十年も、何百年も前から止まったままの景色。時刻や日付を示すものは見つからないから、いつの夕方なのかはわからないままだ。
「ねぇ、カナ」
「どうしたの?」
「私……これを解読したら、塔の外に出られる気がするの」
ミリーの声は震えていた。少し、怯えているようにも見えた。塔の外には誰も出られないのに、どうしてそんなことを言うのだろう?
「……もし本当に出られるんなら、きっとサクラを見られるよ」
ああ、私が迷いながら返した言葉は、きっと間違いだった。
***
ミリーが本の情報を持ち帰ってからしばらくして、彼女は消えた。あの日から一人で研究をすると言って、
「……ミリーは、本当に塔の外に出たのかな」
彼女が探していた「塔の外」がどこなのか、もっとよく聞いておけばよかった。それが別の塔……サーバーのことなのか、それとも地表のことなのかで、意味は大きく違う。地表に出るには動く体を手に入れないといけないことを、私達は大人になって知らされた。まだ子供の頃に消えたミリーは、今のところ知らないままだ。子供のままに外を夢見て、消えてしまった。毎日声を送っているのに、返事は一度も来ない。
今の私は、廃棄エリアの
あの時一緒に探索した廃棄エリアも、他の人の通報で気づいた時には閉じられてしまった。ミリーが解読した文章を私が読むことは、今も叶っていない。廃棄エリアは年々増えていて、あの子がいれば喜ぶような不思議なことは随分と増えてしまっていた。よくないことなのは間違いないのに、大人になってもそれらの答えは私達に与えられない。
『ねぇ、ミリー。聞こえる? 今日からまた、サクラがピンクの葉っぱをつけたよ。デザイナーになって直すんじゃなかったの?』
問いかけたささやきは、電子の空に消えていった。
鋼鉄のゆりかご、あるいはサクラを夢見るNの塔 雨海月子 @tsukiko_amami
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