片陰
お兄ちゃんの部屋で央くんの首を絞めていた。皺だらけの白衣の上に馬乗りになって、私の冷たい両手は彼の首から熱を奪う。私はとても嬉しそうで、央くんは抵抗一つしなかった。
気が付くと背後にお兄ちゃんが立っていて誰かと何か話しているみたいだ。お兄ちゃんの声を久しぶりに聞いて懐かしさがこみ上げる。
「ざまあみろ」
すると下から両腕がすっと伸びてきて、体が宙に浮いたと思ったらそのまま央くんに組み敷かれた。あ、と思う暇もなかった。フローリングの床が固くて冷たい。
見上げた央くんと目が合った。
央くんは何も言わない。央くんの顔からは能面のように表情がそげ落ちていた。
視界の端でお兄ちゃんがゆっくり歩き出す。お兄ちゃんの顔はマジックか何かで黒塗りみたいにされていて、急に怖くなった。そういえばお兄ちゃんがいつも着ている白衣も着ていない。遠くに夕陽に照らされたビルの群れが見える。いつの間にかここは高いビルの屋上になっていて、お兄ちゃんはこちらを見向きもせずに前へ進む。
「やめて」
お兄ちゃんに私の声は届かない。スリッパを脱いで、そして、そのまま空へ落下する。
頭がくわんくわんする。夢の中で感じていた高揚感はなく、乗り物酔いのような不快感がまとわりついて離れない。しばらくしてどうにか夢だと割り切れるようになると、あの夢にお姉ちゃんが出てこなくて良かったと思った。
*
水族館からの帰り道、ぼんやりと歩いていたら知らない学校の制服を着た男の子に話しかけられていた。恐らく道を聞かれているのだと思うけれど、ちゃんと聞いてなかったから本当のところはわからない。
「……えっと」
なんて返そうか言葉を選んでいると、相手は「かわいいね、どこの中学?」などと申し訳程度の雑談で間を埋めようとしている。
「あ、あの、もう一度」
「ーー総合体育館は2番出口から出て右手」
買い物から戻ってきた央くんが私の背後から早口で返す。
「ありがとう。じゃあまた」
その人は私に微笑んで、軽く礼を言って立ち去った。
「……知り合い?」
「ううん」
「そう」
央くんの目がすうっと細くなって雑踏に紛れた男を追う。私にはもうさっきの人がどこにいるのか全然わからなかった。
振り返った央くんが私をじっと見つめる。夢の中で見た、能面のような顔の央くんを思い出して後味が悪い。
小さい頃からずっと一緒だったのに、最近どんどん央くんのことが解らなくなっている。お兄ちゃんの白衣を着た幼馴染が、自分の中で定義づけられなくなっている。
水槽の中の魚たちを分類するように、ペットに名前をつけるみたいに簡単に区別できれば、こんな微睡んだ曖昧な気持ちを抱えずに済むのかもしれないのに。
「そろそろ帰ろうか」
央くんはいつもみたいに微笑んで、ぽんぽんと軽く頭をたたいた。いつの間にか声が低くなって、背も手も大きくなっていて、ずっと知ってるのに知らない人みたいな不思議な幼馴染。お兄ちゃんと同じ白衣を着ているけれど、お兄ちゃんとはどこか違う。
央くんにすっと差し出された手を握る。私は背が低くて大勢の人ごみの中にいるとすぐに紛れてしまうから、迷子にならないように央くんは手を貸してくれる。雨の日でも親切に家まで送ってくれる。
「今日は人が多いな。土曜だからかな」
「ドームでサッカーの試合があるって。奏ちゃんが言ってたよ」
「ああそれでか」
けれど、迷子になるが方向音痴ではない私は央くんと手を繋がなくても家に帰れるし、なんとなく家に帰りたくなくて外で時間を潰して門限ぎりぎりに帰る日もあることを央くんはきっと知らない。
繋いだ手から嘘がばれたら怖いので、自分の手をすっぽりと覆う大きくて温かい手を離す口実を考えながら、ゆっくりと帰路へ向かう。
夏に向かって少しずつ影が短くなる。高い湿度とともに今期一番を更新し続ける気温は冷静に考える力を確実に奪っていく。
さっき見た涼しげな水槽の中を泳ぐ魚たちを思い出す。あの子たちは一生あの狭い箱の中で息をして、餌をもらって、見世物にされるのだろう。
駅に向かう大通りで、さっきの水族館はショッピングモールからも近くてデートスポットにおすすめだと話す女の子たちの会話が聞こえてきた。手を繋いで歩いて帰る私たちは知らない人達から見たらきっと兄妹で、けれど兄妹ではないから近衛さんとか学校の人たちに見つかってしまう前に、央くんの優しさを無下にしないように、やんわりと手を離さなけばならない。
「人が多かったけれど、行けて良かったよ」
「うん、楽しかったね」
「またどこか行かない?」
「そうだね。どこがいいかな?」
今日のお出かけ中の発言や私をどこかに誘う時間的な余裕があることを考えると、今回の水族館は他の女の子とのデートで使う下見ではなさそうだと推測する。少なくとも今はただの幼馴染よりも他の女の子を優先するような言動は見られない。
央くんって好きな人いないのかな。
本心のわからない彼から興味本位でそれを聞いてはいけない気がした。わからないことは怖いけれど、知ることはもっと怖い。
もしも央くんに好きな人がいたら、その子のことをちゃんと調べて、弱みを握って、ばれないように手を出して、その子には残念だけれど央くんを諦めてもらわないといけない。
電車を待つホームで央くんのスマホの画面がちらりと見えて鳥肌が立った。
一昨日から何度も何度も報道されている人を殺してビルに立てこもりっている男のニュース速報だった。
薄氷 鵲 @topplingdoll
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