冬眠

霧雨と現実逃避行

 細いフォークがお皿に当たる音すら聞こえない。

 私は彼がフォークでそれをきれいに切り分けて、控え目に開かれた口へと運んでいく様子を黙って盗み見た。丁寧に切られたモンブランは私のショートケーキよりも美味しそうに見える。

 食べる速さもコーヒーを飲むタイミングも、作りものみたいに完璧で、まるで映画の中の登場人物を思わせる。とてもじゃないけれど目の前の彼が実は大喜びしてモンブランを食べている男子高生には見えない。見えないんだよなー……。


 外は雨が降っていて寒そうだったけれど、屋内は適温で店の雰囲気に合った軽やかなBGMが流れていた。シックだけれど重すぎない喫茶店の空気は栞先輩のイメージにぴったりだった。

 男の人なのに(という言い方が失礼なのはわかっているけれどそれでも)お人形みたいに整った顔で、無駄のない上品な仕草。学校こそ偶然一緒だっただけで、本来はきっと住む世界が違うんだろうなとぼんやりと思う。同じ学校の先輩後輩、ただそれだけで年齢も性別も違う友達がいたことのない私は先輩のミステリアスな雰囲気も相まって、この先輩との距離感を図りかねている。

「美味しいね」

 栞先輩につられて笑う。ショートケーキに持っていこうとしたフォークがお皿に当たって音が鳴って、急に恥ずかしくなった。

 私は映画の中の住人ではない。平凡で退屈なその他大勢のうちの一人です。


 栞先輩は意外と甘い物に目がないらしく、こうして時々お茶をする。初めて誘われたときに「なんでですか」って尋ねたら「なんとなく?」って小首を傾げられたから、私もなんとなくついて行くことにした。お茶をするときだけ私は先輩のことを『栞先輩』と呼ぶことにしている。なんとなく。

「本当に美味しい。妹も連れて来たいです」

 ショートケーキは妹が好きな食べ物だった。肯定を示すように栞先輩が薄く笑った。

「妹さんとはいくつ離れているの?」

「2つ下なんです」

「僕も妹がいるよ。妹って目が離せなくて可愛いよね」

「栞先輩の妹ならきっとびっくりするくらい可愛いでしょうね」

「そんなことない、普通だよ」

 栞先輩が控え目に笑った。一度生で見てみたいけれど、会ってみたいとは言えなかった。


 雨は止まなかったけれど、屋内は静かで温かかった。

 自分のケーキを刻む音が聞こえた。罪悪感がこびりついて剥がれない。ショートケーキは妹の好きな食べ物だった。5歳の誕生日にケーキが食べたく大泣きして、先生がいいよって言わなかったから結局最期まで食べられなかった、あの子が欲しがった等質と資質の塊だ。

 気が紛れるものが欲しかったと言ったら怒られるだろうか。甘いだけの塊を熱い紅茶で流し込んだ。

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冬眠 @topplingdoll

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