方向音痴

行き先がわからなくたって

方向音痴【ほうこう-おんち】

1)方角や距離感を把握する力が弱いこと。

2)目的地が決まっているのにその場所にたどり着けない状況、あるいはその人のこと。迷子。


 たどり着かない。ゴールは決まっているのにそこに行くまでの道のりがわからない。右か左か左か右か、同じ景色を繰り返し何処へ行けばいいのか解らない私は焦燥する。やがて歩き疲れて途方に暮れる。

 自慢じゃないが私に迷わない道などない。駅とか通学路とか何度も通えば流石に覚えられるんだけれど、初めて行く場所は普通の人の倍以上の時間をかけないと間に合わないし、地図を見てもうっかりすると進行方向が常に北だと思い込んでしまったりもするからまるで役に立たないこともある。

 その結果が、これだ。


 空は完全に夜に傾きかけていて、薄ら白い月がぼんやりと浮かんでいた。駅までの道を無謀にも近道をしようとして案の定道に迷った私は人気のない狭い路地裏にたどり着いた。大きなゴミ袋が細い道の至るところに置かれ食べ物の腐った臭いが立ち込める中に汚れた猫が横たわっている。猫にはべっとりと血がついていたけれど、薄い腹をひゅうひゅうと上下させていたから辛うじて生きていることがわかった。私はその光景に思わず息を呑む。

「日下さんでしょ、日下夕紀」

 目の前にいるのは同級生の芳賀優樹。頭もいいし運動神経も抜群で友達も多いしなんか別世界の人。下の名前と誕生日が一緒ってことくらいしか多分共通点はなくて、それ以上のことは知らなかった。知りたくもなかった。偶然知ってしまった今、とても後悔している。

 血のついた金属バットを持った彼は品定めをするような目で私を見下ろしていた。

「大丈夫?声出る?」

 突き放すような冷たい声に鳥肌が立つ。

「誰にも言わないでね」

「……わかったから、駅まで連れて行ってくれない?」

 平然を装ってそう返すので精一杯だった。芳賀は眩しそうに目を細めて私を見やると一瞬でいつも教室でみせる顔の芳賀に戻った。


 その日以来、芳賀は自然と話しかけてくるようになり、気がつけばよく話をするくらいの仲になっていた。多分友達とかに言わないように見張っているんだと思う。

 話してみるといろんなことがわかった。たとえば好きな食べ物とか好みのファッションとか、よく読む本のジャンルとか好きなアーティストとか、嗜好やセンスは合わせたかのようにぴたりと一致した。性格は全然違ったけれど芳賀とはとても気が合った。

「芳賀ーこの前言ってたアルバム……」

 そして二人きりになると芳賀は目を細めて私をじいっと見つめた。

「何?」

「別に」

 獲物を狙う獣みたいな目に本能的に視線を逸らしたくなる。

「……じゃあ見ないで」

「なんで?」

「その目、やだ」

「俺は日下のその目好きだよ。怯える小動物みたいですごく可愛い」

 薄く笑ったまま芳賀が髪に触れてその手が軽く首を押さえつけた。苦しい。好きだよ、と言って芳賀は微笑んだ。

 人や動物を一方的に虐げるのが趣味らしい。それだけは私と違っていたけれど、芳賀はたまに見せる獣の目を私には隠さなくなってきた。


 夏休み直前に進路希望調査用紙が回ってきてだらしない空気の教室が少しだけざわついた。B5用紙に書かれた第一希望、第二希望、第三希望と書かれた隣の空白を凝視してみるけれど名案は何も浮かばない。

「芳賀は進路どうするの?」

「まだ決まってないけれどとりあえず進学かな。日下は?」

「わかんない」

 何それ、芳賀がおかしそうに笑った。そんな単純なことで私は天才と凡人の差を痛感する。

 『未来』と言う言葉に不安しか感じないのは私だけだろうか。高校を卒業して大学生になって会社に勤めて誰かと結婚して子供を産んで、そういう『当たり前』と呼ばれることを想像するだけで息が詰まるような錯覚に陥る。世間一般が期待する『当たり前』のハードルが高すぎて、私は簡単に私を手放したくなる。助けてなどくれないくせに言いたいことだけ言って勝手に理想を押し付けてくる大人達も嫌いだった。

「わかんないんだったらさ、色々試してみればいいじゃん」

 高校生になっても新しく何かを始めるわけでもなく、だからといって何かに夢中になるわけでもなく、間延びした授業を聞きながら漫然と今をやり過ごしていた。怒られないようにと無難に過ごしてきた代償として、何の経験も社交性も身につかなかった中身のない自分がいる。

「例えば猫を殺したりとか?」

 そしたら世界は変わったのかな。

 芳賀が鋭い目で睨んでくる。こんな風に人に殺気を向けられるほど、大事に思える自分がいればいいのに。

「あんたみたいに成功も失敗も繰り返して、普通の大人になりたかった」

「まだ子どもじゃん」

「……そうだね」

 今なら何でもできるよと言われたような気がして怖かった。

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