満たされない

私は、どんな物に対しても、その感想や考察は、言語化不可能なものだと思う。


彼の言語に基づいた価値観の元で感想を抱くとしても、それは明瞭な言語の形式を必ずしも持たないはずだ。


これらが言語化されるのは単に他人から求められ行われる社会的訓練によって非言語な感情の言語化プロセスが最適化されているからだ。


究極的には、感動したら銃で生き物を撃ち殺し、その銃創でどんな感動かを表現する、というのも、感情の表現の仕方としてあり得ないとは言えないと思う。


何故なら、訓練による条件付けによって、その範囲はあるにしても、感情と行動は結びつけようがいくらでもあるからだ。そして、条件付けによって行動が感情を発生させることがあるのもまた事実である。


しかしながら、そのときその行動は本質的だろうか?生き物の殺し方が感情を本質的に表していると言えるだろうか?


言えない筈だ。感情の表現としてそれはあまりにも大雑把すぎるからだ。


私には、言語による感情の表現は、これと全く同じに思える。粗すぎるのだ。すなわち、言語化という行為は、感情の表現という面ではナンセンスであると思う。


はじめての体験により言語化困難な感情を抱くと言ったことは、最適化されていない領域であるがために言語化が遅滞しているのだと言えるだろう。


これはそのまま、感情の本質が非言語的な物であることを裏打ちするのだ。


だから、言葉にできない感情というのは、むしろ本来的な感情であり、それに対して言葉を尽くすことは、その本来の感情を破壊する行為ではないだろうか?


言葉にすることは、真に社会的な行為であり、人に自身の感情を伝えるために自身の感情を破壊するということではないかと思う。これは、どんな感情の表現でもそうであり、何かで感情を表現してしまうと、その本来性は幾らか失われてしまうものなのだと思う。


感情をそのままにしておき、満たされないままにしておくことも、一つの正解なのではないだろうか?

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無題 @cresttitania

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