隅田川情景

白川津 中々

 男と女がいた。

 隅田川の縁を言葉なく歩く二人。酷暑の中、日傘を半分にして心許ない影を作り、張り付く汗を拭えずに流すまま風に吹かれ、時に立ち止まっては川の中を眺めてみては、女の方が声をあげるも男の方は静かなままで、ようやく口を開いたかと思えば「あぁ」とか「うん」とかばかりであった。それでも女は、また立ち止まってはしきりに声をあげ、時折「あぁ」「うん」との呼応に喜んでいた。



「お腹が空きましたね」


「そうかい。それぢゃあ、何か頂こうか」



 初めて言葉らしきものが男から発せられ女は喜んだ。だが男は上の空で、感情というものが欠如しているような風だった。言い換えれば、心ここに在らずといった様相である。



 二人は川から離れ、横道にある釜飯屋の暖簾を潜って、一番安い釜めしを一つだけ頼んだ。卓に運ばれているまでの時間、二人はやはり無言だった。厨房から聞こえる音の他、時折窓際からにゃあと猫が顔を覗かせたり、どこかで算盤が弾かれるのが聞こえるくらいで、他に客のいない店内は陰鬱としていた。



「聞いてくれるかい」



 切り出したのは男の方からだった。珍しくはっきりとした口調に、女は身構え、卓の下で手を握る。



「もう会うのは止めよう。僕は自分で生きていくのさえままならない人間なんだ。今日だって、一番安い釜飯をひとつしか用意できない。君のためにならない」



 男の言葉に女は俯き、唇を噛む。ここで「そんなのちっとも気にしないわ」と言ってしまえばきっと男は絶縁を撤回し、また一緒に、貧しいままの関係に戻れる事を分かっていたのだろう。だが、それは彼女が望む事ではない。共に生きる事で、返って男の首を絞める結果となるのを、彼女は知っていた。



「……」


「……」



 

また言葉がなくなり、重い、重い時間が流れた。どれだけ経ったか、どれだけ待てばいいのか分からず、ずっと、時間だけが流れていった。




「お待たせいたしました」




 釜飯が運ばれてくる。やはり口は開かれない。釜飯の蓋も閉じたまま、何処を見るでもなく、二人はじっと座っている。




「……分かりました」




 沈黙を破ったのは女だった。声を出したついでに釜の蓋を開け、茶碗を二つ手繰り寄せて、彼女は言った。



「でも、最後に一緒に、ご飯を食べましょう。これが、最後の思い出」




 よそられた飯をじっと見てから、男は茶碗を手に取った。

 店の中は厨房と、猫と、算盤と、飯を掻き込むと音と、そして、嗚咽が小さく響いた。

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