10 題「鍵」「卍」「白日夢」

 俺は人間だ。勿論人間だ。

 それはふさふさに生やした俺の髪だったり、指先にどくどくと走る血潮の起伏だったり、べたつく口内環境が俺を人間であることを示している。

 人間の証明というものはむつかしい。

 しかし、とにかく俺は俺だ。ある哲学者が、疑えるもの全てを排他していくと最終的にものを考えている自分だけが残る。それだけは本物と言い切れると言っていたけれど、今俺は考えだけになっている。今の俺だけが本物だ。

 きっと俺は酔っているのだと思う。面白い小説を読んで、粉々になった心と頭をふかふかのベッドにまき散らしながら眠った。その感覚、今でも耳をすませば自分自身の鼾が聞こえてくるようだった。

 俺は紛れもない俺。

 道がある。

 真っすぐな道だった。地面は白く、背景も白い。境界線が存在しないため、それはただの真っ白な背景、いや前景、どちらでもいいけれど、とにかくそこはそれ以外が存在しない空間。何物も拒まない真っ白な空間だった。

 俺はその真っ白なキャンバスを道として認識していた。どこを踏み外せば、どこへ落ちるのか分からないけれど、それは不確定な道、存在しているが俺の目には見えない道だ。

 一歩目を踏み出す。その真っ白な空間は今の俺の幻想を反映しているようだ。そう、俺は今白日夢を見ている。その実感がある。それを見ているという自覚がある。

 その自覚があるということは俺は俺なのだ。俺はなんだか歌い出したくなるような上機嫌を胸の中にひっさげて二歩目、三歩目、と歩みを進めていく。

 なあんだ、意外と簡単じゃないか。

 俺は小さな頃、まだだれも通っていない山道のことを思い出した。小学校までの道のりが遠かった俺は、色々なところを遊び場にして、泥んこになりながら家へと帰ったものだった。その時、いつも近寄らない山への道があった。道、という表現が正しいかどうか分からないけれど、それは確かに奥へと進んでいくための標だった。俺はいつものその道の先を見ないようにしながら、その奥にいる何かに気づかれないようにその道を通り過ぎて……、ちょうどそのタイミングで車が通ると俺は一人ではないのだ、と至極安心したものだった。

 その道を初めて通ったのが十歳の誕生日を迎える頃。二桁の齢を迎えるにあたって、そんな道にさえ負ける弱い男ではこの先が思いやられる、とよく登校時に旗を持って横断歩道の安全に努めているお爺さんを見て思ったのだ。あんなジジイにはなりたくない。その弱弱しい腰を持って一所懸命に旗を振るそのジジイは俺にとって弱さの象徴であった。

 その道を初めて通った時、遠くで雉が鳴いていたのを覚えている。

 俺はその真っ白な全景を歩みながら、雉の声を聞いている。どこかで雉でも鳴いているのだろうか、その白色の無らしい空間からは雉の声が聞こえるようないわれはない。

 歩みをリズムに乗せる。そのリズムが段々と心地よいものになってきて、俺の歩みへの恐怖心は一切合切雲散霧消する。まるで月の中を歩いているみたいだと思った。目を瞑ったときに真っすぐ歩けているのか不安に思うようなことは、俺はもう生涯味わわないのだぞ、と思うととても勇気が湧く。俺は俺がこんなに前向きな人間だとは思わなかった。

 俺は気がついたら走り出している。その真っ白な空間は俺の速度を反映しない。なので、俺はどれくらいのスピードで駆けているのか分からない。景色が後ろへと引きずられず、俺はただひたすら足だけを回転させている。ルームランナーよりよっぽど滑稽だ。あんなものはなくなった方がいい。

 しかし、俺は速度に乗っていることを段々自覚し始める。それは疼痛のような快感へと変わり、俺の剥き出しの筋線維が身体の節々から溢れてくるみたいにエネルギーを具現化させている。その余りあるエネルギーは、全てが走ることへと注力されて、俺は一枚の紙きれのようになる。その紙きれは風のような外部要因に乗せられて遠く、遠くへとものすごいスピードで置き換わっていくのだけれど、それは実際には俺の身体だ。俺の身体が、俺自身を乗せている。

 ざまあみろ! と俺は叫ぶ。何よりも気持ちよかった。

 どれくらいの距離を走ったのか分からない。前へ走ったのか、下へ走ったのか、上へ走ったのか、それすらも分からない。しかし、俺は突然足を止める。それは俺自身が脳に命令を下して能動的に足を止めたというよりかは、もっと自然的な、超自然的な、何物かによる意思……。俺が俺でないみたいに足を止める。

 景色自体は変わらなかった。それはただの真っ白で、一つの影も落ちていない。気持ちが悪いほどに真っ白なその空気は、明るさというよりかはむしろ暗さを伴っているようにも見える。

 俺はどうしよう、と思った。真っすぐ進めない。真っすぐ進めないのなら、曲がらないといけない。曲がるのは嫌だ。曲がった人生なんて、大嫌いだ!

 でも俺は曲がる。道を曲がるということは、直線状の自分、その先にいた自分を殺すということだ。俺は人殺しになりながらも、自分を生かさねばならない。そう思って、右を向くと、正面に豆粒位の、黒い点が見えた。

 俺は視力がいい方ではない。しかし、その真っくろな、黒子みたいな粒が人であることは分かる。その人間は俺と同様、俺を認知したらしく、明らかに警戒していた。

 俺も警戒する。ここは俺のための世界だからだ。アイツのための、世界ではない。

 俺はまた道を曲げようとした。嫌なことがあるといつもそうだ。いつも簡単に、ウィンカーを切れば曲がれると勘違いしている。オレンジ色の光が染め上げれば、俺は何時でも曲がって殺すことを許容しているのだ。そんな自分が許せない。でも俺は人が怖い。

 しかし、俺は真っすぐと進む。俺が進むと、そいつも進む。その黒点はどんどんどんどんどんどんと大きくなっていくけれど、それは誰が見ても人間と思えるようなものではない。ただの黒い点、それが人間だと分かっているのは俺だけなのだ。

 俺はただただ進んでいく。何にも制限を設けない。耳朶のあたりが熱くなってきて、走れ、走れ、と誰が囁く。俺は思いっきり地面を蹴って秋の虫のように遠く遠くへ舞おうとするのだけれど、誰が裾を引っ張って離さないように、俺はほんの少しだけ浮かび上がったのちに着地する。誰も見ていないのだろうか?

 逃れることはできない。人生がいつか終わるみたいに、俺は歩みを進めて、その黒点との距離を詰めていく。そしてその中間があることをなんとなく知る。注いだビールの泡がどこらへんで止まるだとか、そんなものが分かるみたいに、奴と俺の中間の点が分かる。

 そして俺はひらめいた。奴に向かわずとも、俺はその中間の点、空間と俺を結んで、そこに帰結すればよいのだと。

 やほほぅ、と俺は声を上げる。俺は天才ではないけれど、自分のことを天才だと思う瞬間が多々ある。そう考えられる愚かな頭を持っていることが、天才の資質だ。

 その空間へとたどり着いた俺は、真っ黒な点がどんどんと形を成していき、人間の姿になるのが分かる。それはやっぱり、俺だった。しかし、鏡ではない。そんな滑稽な飼い猫のようなことにはならない。俺はそれが俺自身であるということを知っていると共に、両隣の二人を見る。左右から現れた黒点を装った俺も、俺だった。

 俺たち四人は互いに顔を見つめあう。そして皆もじもじとして、自分が黒点を装っていたことに対して恥じているようだった。俺も知らずの間に、黒点になっていたのではないかと思い、勝手に恥じる。

「右に曲がった」

 俺はそう言う。開口一番に切り出したのは、俺が他ならぬ俺だからだ。こいつら偽物には、思考する時間も権利も謂れもない。

「右に曲がった」

「右に曲がった」

「右に曲がった」

 俺以外の三人も、まったく同じことを言う。「それじゃあ」俺は自分の声が怒気を含んでいるのを感じる。

「卍になっているってことじゃないか」

 俺はそう言って、笑ってしまった。卍になっている? それを聞いた他の三人も笑った。歯茎の間から見える白々しい嘘の色で俺は思わず「笑うな!」と声を荒げる。

 卍になっているということは、誰かが道を譲らないといけないということだった。誰しもが、真っすぐには進めない状態。誰かが退いて、その姿もろとも白色の空間に滲ませて溶けだしていく必要がある。そんなのはごめんだ。誰だって、ごめんだ。

 トントン、と右隣の俺が中心の地面を叩く。「コンコン」とそいつは言った。みんな、真剣な顔でそいつが地面を撫でるのを見ている。そいつは間抜け面で、真剣に、薄力粉の中の飴を頬でより分けるみたいにして何かを探している。「あった」

 そいつが見つけ出したのは、ほんの小さな鍵穴だった。俺たち黒点の、誰よりも小さな黒い穴。その穴の先は、何処へ繋がっている? 誰かに資質があるということなのだろうか。

「跳ねてみろよ、ウサギみたいに」

 ぴょん、ぴょんと左の俺がジャンプをする。するとどこかで雪崩が起きたみたいに豪快な音がポケットの中で響く。俺だ。俺は自分のポケットをまさぐると、中に本の一つ髪束みたいに細い鍵が入ってることに気がつく。

「俺からだ」

 左の俺が言う。俺が顔を上げると、全員が鍵を持っていた。俺はなんとも馬鹿らしいと思った。そんなことをしなくとも全てはもう終わっているのに。

 左の俺はかがんでその鍵穴に鍵を差し込む。しかし、鍵は回らない。当たり前のことだった。左の俺は「なんで」と言葉に残す前に消えている。それは白よりも白い人影だった。俺が瞬きをすると、その二重に塗りたくられたようなくどい白色は消え去っている。

 そうなってくると、話は早い。俺は右に立つ俺の鍵を奪って無理やり鍵穴へ挿した。回らない、当然のことだ。それを右の俺も知っていたのか、呆気ないほどに白々とした空気へと変貌してしまう。理科の実験みたいだった。

 残されたのは俺と対面に立つ俺だった。正面の俺は「入れてみろよ」と俺を挑発する。油断した俺の鍵を奪って食べちゃうつもりなんだろう。食べちゃえば、全てはなかったことになる。

 起きるのはお前じゃない、と正面の俺は言った。そして俺は驚く。こいつは俺なのだ。コイツは今、白日夢を見てる俺のことを俺として認識している。

 そうなると、困ったことが一つある。俺が俺でないかもしれないという不安だ。その不安は鈍色だったけれど、周囲の背景が真っ白なものだから、目の錯覚でよっぽど黒く見える。俺は参ってしまった。

 けれど、俺が俺であることは間違いない。俺が俺でなかったとしたら、この記憶は何なのだ? お前に真っすぐ走ることが出来るか? 俺は対面の俺に訊くけれど、「お前だって一度曲がったんだろ」と俺を相手にしない。それは図星だった。

 俺はどうして俺がこうなってしまったんだろうかという原因を考えることにした。学生時代、高校の頃、あの夕暮れに染まった図書館で俺はあの娘に想いを伝えなかった。夕陽が俺の額と彼女の鼻を赤く照らしていたことを思い出す。ちょうど夏も暮れる頃だった。虫の音が少しずつ大きくなってきて、彼女の息遣いが耳元に響いて、俺は目の前の本ではなくて彼女の本を手繰る指先一本一本に夢中になっている。その滑らかな指が俺の身体を這うことを想像する。その微笑みが俺だけに向けられることを想像する。

 しかし俺は想いを伝えなかった。伝えられなかった。それが実らぬものだとは知っていたからだ。「お前も知っていたんだろ」と俺は目の前の俺に怒鳴る。お前に拒否する権利はないはずだ、と思った。「だから譲ってくれよ……」

 俺は伝えたよ、と向こうの俺は言った。「俺はお前とは違うところで曲がったんだ。後悔してるのか?」

 うん、うんと俺は頷く。どれだけ惨めでも良かった。どれだけ情けなくてもよかったから、そいつの鍵が欲しかった。「頼むよ」と俺は俺に懇願する。

「分かった」

 対面の俺は俺に鍵を渡す。「寄越せよ」。対面の俺がそう言うので、俺は俺の鍵を対面の俺に投げる。スッキリしたかったんだ、後悔とか、そういうところから。

 対面の俺は物悲しい顔で鍵を見る。そしてそれを鍵穴に挿すと、鍵穴は回った。二重も、三重も、回った。

 どけよ! 俺はその鍵を抜いて、自分の鍵をその鍵穴に挿すけれど、ほんの少しだって回らない。俺は俺なのに。お前は俺じゃないのに。

 対面の俺は耳がつんざくほどの爆音で笑った。あはははははははははははは。あは、俺も釣られて笑う。笑うなよ。

 俺が黒い点みたいになるのが分かる。背景には不要だ。真っ白な空間に、俺の一つ一つが滲んでいくのを感じる。

 鍵穴は消えていた。そして俺は目を覚ます。

 俺は俺の道を二度曲がってしまったのだった。

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三題噺 米山 @yoneyama

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