9 題「一族」「墓」「手毬」

 僕は鏨をジッと握って、神経の一本一本をその粗い岩肌に擦りつけるみたいにして加工していく。うっすらと通った蜘蛛の糸ほどの筋を頼りに音もなく裂けていく柔石は何か得体の知れない生き物のようだった。僕の手の中で鼓動を続けるそれは料理人を前にした食材のように色づいた呼吸をしており、自ら発光している。石を彫ることは、調理と似ているのかもしれない、とそう思った。今朝、友人のマイケルが作ってくれたパスタは絶品だった。

 僕の一族は代々、彫刻を彫ることを生業としている。まだ赤ん坊のころから身体の一分みたいに平気で平タガネを持たされていた僕たち兄弟は、色んな所に生傷が絶えなかった。父が厳格な人であったから、一族のしがらみや縛り、呪いとも呼べるような制約をその一身に引き受け、それは大層精進したという。おかげで、今ではこの業界の中では我々一族の名を知らぬものはいないほど名を知らしめたのは父の功績だが、僕たち兄弟は普通の生活が送りたいと終始嘆いていた。唯一違ったのは父の厳格な性格を引き継いだ長兄だけで、次兄と僕、弟は毎日めそめそ泣きながら、豆を潰して真っ赤に染まった手で岩を彫り続けていたものだ。

 長兄は父を継ぎ彫刻家に、次兄は家を飛び出して、僕は墓職人になった。弟はまだ修行中の身である。

 僕には長兄ほどのセンスやアートに対する理解、ハイカラさが足りず父はいつも嘆息していた。ただ、僕が作る作品はどこまでも丁寧で心が籠っていたから、墓作りをする叔父が僕を見初めて彼の工房に引き抜いた。僕にとっては喜ばしいことだったけれど、岩を彫る運命からは逃れられないのだと、そう悟った。

 その点では、次兄のことを羨ましく思う。彼は修業をよくサボって、父によく怒鳴られて、殴り合いの喧嘩までしていたけれど、彼の作品には本当に華があった。スキルや技術が乏しいから、それはまだ片鱗であり、開花していない才能にも関わらず、妙に人を焚きつけ、目を奪わせた。父もそんな兄の才能を感じていたからこそ厳しく接していたのだろうけれど、当の次兄本人は積もり積もった積年の怒りと苦しみと怨嗟から、家を飛び出した。幸い、どこへでもやっていけるような器用さと人に好かれる才を持っていたから野垂れ死にはしなかったみたいだけれど、こんなご時世だ。相当苦しい生活を送っていたという。

 そうして兄が家を出てから三年が経った日。父は自らの個展を開くための作品造りに没頭し、長兄は父の身の回りの世話や自らの作品ひいては父の個展の手伝いをし、僕はようやく墓作りになれてきて、弟は日々研鑽を積んでいた日のこと。

 次兄の訃報が届いた。

 それはあまりに突然のことだった。父と兄はその現実に触れぬよう、逃避するよう何も言わず個展を開き、母は湖が出来てしまうのではないかというほど泣きわめき、弟はそんな母を慰めた。

 僕はその時、一心不乱に墓を彫っていた。直面しがたい現実が自分の身に降りかかった時に取ってしまう行動が父と兄と一緒ということには随分辟易したけれど、僕は自分がどうすればいいのか分からなかった。岩を彫ることと兄弟と戯れること以外に、僕はほとんどを知らない。ようやく、墓の彫り方を覚えたところで、人生の真っ最中なのだ。

 他人の死が示す、唯一の真実は、自分がまだ生きているということだ。

 僕は狂ったように墓を彫り続けた。叔父のところに舞い込む依頼を片っ端から引き受けて、この町にはもう墓を必要とする人がいなくなるまで掘り続けた。もっと人が死ねばいいのに、と、善悪の感情から一切解き放たれたところで、僕は純粋にそう思った。

 もう一人前の墓彫りとして墓を彫っていた僕は、叔父の所から独立することにした。名誉を得たいというわけではなかったけれど、パスタをワインで茹でる時の芳醇な香りがふわりと広がるみたいに僕の知名度は知れ渡り、こんな小さな工房に留まっているのも馬鹿らしく思えた。何より、僕はただ純粋に墓が作れれば良かった。ただ、それだけで、こうして有名人扱いされて重厚な待遇を受けるのは違うような気がした。父は喜んでいたけれど、僕は僕のことを誰も知らない国の反対側の端っこの小さな村に越すことにした。町を去るとき、長兄の助手をする末弟とマイケルの造るパスタのことだけが心残りだった。

 海が見える町だった。僕はそこで、たいして高価でない墓石の材料を集めて(開業コストなんて、ほとんどゼロに近い)墓屋をやった。墓は誰にでも必要で、どこにでもある。ひとまず食いっぱぐれることはなく、生活が安定するくらいにゆっくりと仕事をこなしていた。一日の終わりに、夕陽を見に行くのが楽しみになった。

 海上に沈むテトラポットの群れが、誰かを弔う墓に見えた。後ろから射す夕陽は、そのテトラポットに潜む悔恨だとか死の冷たさだとかを照らし出す。海で遺体も見つからずに亡くなった彼らの墓標なのだろう、と本気でそう思った。

 僕が枯れ木に座り、市場で買った干物を食いながら夕陽を見ていると、後ろからしゃがれた声の女性に声を掛けられる。

 声の様子からはあまり想像できないような、清楚な美女がそこに立っていた。ただ、もう若くはないみたいで、女盛りを下り始めたような、そんな物悲しい顔つきをしている。生まれつきなのかもしれないけれど、皺が濃く見えた。

 彼女は僕の名前を呼ぶ。間違いないですか? と、そう呼ぶ。僕は首を縦に振る。しかし、その名はかつてもう既に捨ててきたはずの、故郷での名だった。

「どうしてその名で僕を呼ぶんですか?」

 僕は訊いてみる。「その名はもうとっくに失せたものだと思っていた」

「いいえ、そんなことはありません。一生、消えることはないのです。それがたとえ、一生を過ぎたとしても、暮石に刻まれた名のように」

 そうして彼女は、あろうことか僕の兄の名を告げた。次兄の名前だ。

「私は彼の妻でした」

 そう言う彼女の顔は、夕陽に照らされて陰影が濃く映り、余計物悲しそうに見えたのもつかの間、季節の割に冷たい潮風が彼女の眼前を吹き抜けると、彼女は張り詰めた力を弛緩するようにふっと微笑みかける。昔を懐かしんでいるような、今に呆れているような、とにかくそれは魅力的な笑みだった。時折自分の中に流れる水とそれに撫でられるように削られる岩がぴしゃりと一致したときに現れる線の跡と同じ刻まれ方をした頬の皺であった。

 聞くところによると、彼女は本当に次兄の妻であったらしい。母とも面識があったようだ。お母さましか知りませんから、と彼女は遠慮がちに笑う。

 しばらく昔話をしたのち、僕は彼女から依頼を受けることになった。彼女の家族の墓を彫るという依頼である。それは兄の兄弟である僕にとっても、墓彫師としての僕にとっても難儀な依頼だった。

「手毬を彫ってほしいんです」

 次兄と彼女の間には、娘が一人いた。「手毬」という名の女の子だ。次兄はまだ赤ん坊の娘に、自らの境涯を現わす鏨と真反対のような、幸せの象徴であるような丸形を描いた、手毬を持たせて遊ばせていた。その様子を見て迸る一瞬の家族団らん、研ぎ澄まされたような幸せがそこにあったという。

 次兄は不慮な交通事故で死に、その後娘は流行病に侵されて夭折した。目も当てられぬほど悲惨な人生に、僕は彼女にどんな言葉をかければいいのか分からなかった。その三人で過ごした時の事だけを一生に抱えながら生きている彼女には、僕は僕に出来ることをしてやるしかなかった。

 初めて、僕は墓を彫っている最中に、死んだ人のことを想った。

 兄のこと、兄の娘のこと、兄の妻のこと、昔の思い出……、さまざまなことが、岩を彫る線と共に浮かび上がるようで、僕はその墓を彫っている最中、何度も嘔吐した。墓を彫るということは、こんなにも辛いことだったのだ。

 三年をかけて、僕はその墓を完成させた。改めて葬儀がしたい、と兄の妻に申し出て、彼女は不服そうだったけれど、僕は僕の家族を呼んで小さな小さな葬儀を開いた。みんながみんな、僕が作った墓に生前の次兄を見て、彼との思い出を完遂させていた。死んだ人はもう帰って来ないし、僕はまた歩み出さないといけない。そのために、お別れを告げるための扉なんだと、その墓に描かれた手毬を見ながら僕は切に、強くそう思った。

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