8(美術館は静かだった)
念のために志花に確認してみると、用事というのは美術館にいくことだった。それでてっきり、車の必要な遠くに行くのだと思ったら、市内にある美術館だという。それは本来なら、志花にとっては自転車での移動範囲だった。
ちょっと妙だとは思ったけど、僕としては否やはない。地元の美術館とはいえ、久しく訪ねたことはなかった。たまには、郷土愛に敬意を払うことも必要だろう。
それですぐ次の休日に、僕はいつものごとく志花を迎えにいった。彼女はほとんどいつも通りの格好だったけど、上着の選択には多少の気遣いが感じられないでもない。何にせよ、彼女が馬鹿にでも見える服を着ているのは幸いだった。
僕たちは車に乗り込むと、さっそく出発した。目的地はわかっているし、手作りサンドイッチの入ったピクニック用のバスケットや、火口に放り込まなければならい厄介な指輪を持ってるわけでもない。簡単なものだった。
移動中もそうだったけど、志花の様子はいつもと少し違っていた。不機嫌そうなところや、何かに怒っているような感じがしない。どちらかというとぼんやりしているというか、何もかもに無関心そうな表情をしていた。落ち着いている、というのとは少し違って。
高架橋を渡り、平べったい干拓地に作られた市街地に入って、そこから少し細い道に入る。美術館は特にもったいぶった様子もなく、住宅地のあいだに建てられていた。特徴的な柱や、凝った破風があるわけでもない。建物は市立図書館の横にあって、駐車場はどちらを利用してもかまわないようになっていた。
僕は図書館の裏にまわって、白いワゴン車の隣にとめた。駐車場は半分くらいが埋まっていた。市役所の職員としては、公共施設の利用率について多少の思考を巡らせないでもない。
今日はわりと秋らしい日で、空気には冷えびえとしたところがあった。車から降りると、まるで待ちかまえたみたいに冷気が忍びよってくる。体を震わせたり、息を白くしたりするほどではないけれど、季節の終わりを確実に予感させる空気だった。
僕と志花は図書館の建物をぐるっとまわって、美術館のほうに向かう。
余談、というわけではないけれど、志花は本を読むわりには借りるということはあまりしない。本の供給はもっぱら、古本屋に頼っているのが現状だった。どうしてなのかは、よくわからない。抱卵中の鳥が巣からじっと動かないみたいに、自分で読んだ本が手許にないと不安なのかもしれない。
いったん通りに出て、そこから入口へ向かう。美術館は全体が塀に囲まれていて、敷地内に見えるのは木立が何本かくらいのものだった。平屋の建物をうかがうことはできない。ごく控えめに表現しても、地味な美術館だった。
この美術館は、「名前のない美術館」という名前をしている。ひどく哲学的な名称だった。名前があるのか、ないのか、わからない。例の嘘つきなクレタ人と同じで。
何でそんな不思議の国のアリス的な名前なのかというと、それは収蔵品と関係している。ここは元々、大正時代の実業家のコレクションを母体にしているのだけど、それらの収集品にはある特徴があった。すべて、作者不詳なのである。
その人は家具の貿易で一身代を築いたという話だけど、一風変わった人物だったらしい。何か、ややこしい幼少期を送ったのかもしれない。その実業家が管理財団をつけて市に寄贈したのが、この「名前のない美術館」というわけだった。
塀の途切れたところに、入館口があった。僕たちは自動ドアを開けて中に入る。暖房はまだつけられていなかったけれど、中の空気は屋外ほどの冷たさはなく、ちょうどいいくらいの温度だった。
受付けには女性の事務員が一人いるだけで、ほかに人影はなかった。僕たちが近づくと、中年くらいの女性は今ようやく気づいた、というふうに顔を上げた。進化論的に集約されたような、万国共通の間の取りかたである。
でもその人は僕たちのほうを見ると、少しだけ「あら……?」という表情を浮かべた。僕たちというか、主に志花のほうを見て。
「こんにちは、また来ました」
その反応を見て、志花のほうが先に挨拶する。
「ええ、ようこそいらっしゃいました」
その人は事務的なものより、いくぶんか好意的な笑顔を浮かべてお辞儀をする。どうやら、二人は顔見知りらしい。
「何だ、知りあいなのか」
僕はとりあえず志花のほうを向いて、そう言った。
「まあね」
と、志花は簡単に言う。
「そんなに何回も来てるのか?」
僕が訊くと、それに答えたのは受付けの女性のほうだった。
「いえ、そういうわけでもないんですけど、何となく私のほうで覚えてしまっていて。それでつい、馴れなれしくしちゃってるだけなんです。すみません、本当に」
屈託のない言葉に、志花は「気にしないでください」と言って首を振る。とりあえず、志花がここの常連であることは確かなようだった。
世間話をするほどのこともないので、僕たちはさっそく入館料を払って中に入ることにする。ここは今回の主唱者が料金を負担すべきかと思ったけど、どうやら違うらしい。
「……俺が払えって?」
割り勘ですらないらしい。人の生肉を要求するどこかのごうつくなユダヤ人か、こいつは。
「まあ、そういうこと」
志花は悪びれもせずに言った。
「何でだ?」
「そういう気分だから」
何とも斬新な答えだった。
それでも、僕は言われたとおりに二人ぶんの入館料を払う。そのうち、海で釣ったヒラメに向かって、皇帝になりたいとか何とかお願いするつもりなのかもしれない。入館料は特に高いわけでもないので、気にするほどでもなかったけれど。
受付け女性のお辞儀に見送られて展示室に入ると、中はしんとして人影はどこにも見あたらなかった。市の収支報告によると、確か一日平均で六十人くらいの来館者がいるはずだったけど、ほかの人間の姿は影も形も見えない。たまたまそういう時間帯なのか、僕たち以外の人間が急に透明になってしまったのかは不明である。
美術館は円形の作りになっていて、漆喰を塗ったような白い壁と廊下が、一定のカーブを描いて続いていた。円の外周にあたる壁はガラス張りになっていて、塀に囲まれた小さな庭に面している。
その光景を見て、僕は前に一度、ここを訪れたときのことを思いだしていた。あれは確か高校時代のことで、今と同じように志花といっしょだったはずだ。その記憶は保存状態の悪い写真みたいにはっきりしなかったけれど、間違いないはずだった。
ガラスの向こうにある狭い庭を眺めていると、今にも木々や地面を濡らして雨が降ってくるような気がした。
正直なところそれが何故なのか、この時の僕にはまるでわかっていなかったのだけれど――
廊下や壁面が円形になっていると書いたとおり、この建物はやや特殊な作りをしていた。
館内は都合、四つの同心円で構成されている。さっきも言ったガラス張りの外周と、室内を区切る円状になった三つの壁。内壁はそれぞれが九十度ずつ切れめが入っていて、互いの切れめは半分ずつずれている。ちょっとした迷路みたいな作りではあったけど、少なくとも牛の頭をした怪物は棲んでいないはずだった。
展示品は、彫刻、絵画、陶芸作品、ガラス作品、綴れ織り、版画といった雑多なものだったけど、すべてその作者の名前がわからないということでは共通している。もしかしたら、有名な芸術家の一品という可能性もなくはないだろうけれど、すべての品は厳正な鑑定を受けたうえで収蔵されているらしかった。
僕たちは幾何学上の点にでもなったみたいに、円周にそって歩きながら美術品を鑑賞していく。
無作法ではあるけど、ほかに来館者はいないらしいので、僕たちはけっこう好き勝手にしゃべりあった。美術品は自分たちの前で騒がれても、不当な評言を受けても、気にしたそぶりは見せなかった。たぶん、自分たちの本当の価値を知っているからだろう。
彫刻の一つの前では、僕たちはこんなことを話しあった。それは例のラオコーン像みたいに苦悶の表情を浮かべた頭像で、全体に乳白色の蝋を被せてあった。そのせいで輪郭は曖昧で、沈殿した光を塗り固めたような感じがしている。
「何に苦しんでるんだろうな」
僕は訊いてみた。
「さあ、奥さんの浮気とか、住宅ローンとか、そんなところじゃない?」
「……それは嫌だな」
「それよりこれって、何か白菜みたいに見えないかな?」
言われると、そう見えてきてしまうところが厄介だった。
次のガラス瓶は、昆虫をモチーフにした装飾が施され、自然石めいた色彩と質感をした美術品らしい一品だった。それに対する志花の感想は、「割れたらきれいな破片になりそうね」だった。製作者が聞いたら、泣いてしまうかもしれない。
展示品の中には現代アートもあって、縦横一メートルくらいのカンバスに、乱雑そうな黒い線がやけに丁寧に描かれていた。実に現代アートらしい、意味不明の作品だった。
「題をつけるなら、何にする?」
と、僕は訊いてみた。
「五線譜から逃げだして、自由と混沌を手に入れた音符たち」
というのが、志花の答えだった。やはり、意味はわからない。
そうして作品を見てまわるうち、僕たちは美術館の中心にたどり着いていた。世界の果てまで旅したわけじゃないにしろ、ずいぶん遠くまでやって来たような気がする。
中心――つまり四つの円の真ん中は、空洞になって四角いソファが置かれているだけだった。周囲にある四つの壁には、絵画作品が一点ずつ配置されている。そこには空白の中心にでもやって来たような、奇妙な静寂が存在していた。
志花は四つある絵のうち、一つの前に立った。その様子からすると、どうもこの場所にやって来た理由は、その絵を見るためだったらしいとわかる。
僕も同じように、彼女の絵を眺めてみた。
それは、少し古い時代のものらしい油彩画だった。画面全体に雨が降っていて、駅かどこかを遠くにとらえている。手前には若い女性の姿があって、熱心とも無関心ともいえない態度でそちらのほうを眺めていた。特に劇的なところも、特に感激するところもないような絵だった。そこにはただ、雨音より小さな、つぶやきにさえならなかった誰かの声が描かれているだけだった。
でもその絵を見たとき、僕は部屋の中の明かりを点けられたみたいに、はっきりと思いだしていた。ずっと前、高校時代に志花とここにやって来たときにも、僕はまったく同じものを目にしていたのだ。
――僕はあらためて、志花のことを眺めてみた。
彼女はまるで、金庫の中にでもしまっておいた大切な時間を使うみたいにして、その絵の前に立っていた。そこに永遠や、絶対や、世界の正しさがあるみたいに。彼女は真剣に、優しく、丁寧に、いささかの過不足もなく、一番短い距離でその絵と向きあっていた。
ああ、そうだ――
僕はまるで、星に願いをかける子供でも目にしたみたいにして思った。
高校の時からずっと、彼女はそこにいる。その絵の前に。いや、もっとずっと前、その絵を直接目にするときよりも、ずっと前から。たぶん彼女が、何かを書きたいと思ったその時から。
志花は微動もせず、その絵を眺めていた。まるでコップの中にきれいな水でも注いでいるかのように。そして何か、大切な告白でもするみたいにして言った。
「こういうものを、残せたらいいなって思わない?」
僕は前を向いて、答えた。
「――ああ、思うよ」
廻廊を通って外周に戻ると、僕たちはそこにあった休憩用のソファに腰を下ろした。病院の待合室にあるような、黒いビニール張りの簡素な代物だった。残念ながら、市の予算は限られているのだ。
相変わらず人影はなく、空気はしんとして、誰かが念入りに掃除でもしたみたいだった。じっと耳を澄ませば、時間の軋みでも聞こえてきそうである。
僕も志花も、しばらく何も言わなかった。少し歩き疲れていたし、心の水位みたいなものをゆっくり元に戻す必要もあった。ガラスの向こうでは、特に急ぎも焦りもせずに、世界が変化し続けていた。
「時々、思うのよ。何やってるんだろう、わたしって」
志花は不意に、雨粒が一つだけ落ちてきたみたいにして言った。
「――うん」
僕は聞いている、ということだけを示して、先をうながす。志花は形のないため息みたいなものをつきながら、言った。
「わたしのやってることなんて、本当に意味なんてない。誰かがそれを食べられるわけでも、誰かがそれを着られるわけでもない。誰も必要としてないし、誰の役にも立ってない。明日、わたしがいなくなっても、誰も困りはしない、誰も悲しみはしない」
「いや、そうでもない」
僕は礼儀正しくというわけでもないにしろ、念のために口を挟んだ。
「何人かは悲しむよ、僕を含めて」
「それは、ありがとう」
志花はにこりと微笑む。どちらかというと、礼儀正しく。
「…………」
もちろん、志花の言うのがそういう意味ではないことは、僕にもわかっていた。彼女はもっと、現実的で、形而下的で、実際的なことを言っているのだ。
「何にしろ、わたしがいなくなっても天変地異は起きないし、国が一つ滅ぶわけでもないし、後世の人々が何かの記念日を作って祈りを捧げてくれるわけでもない」
それは、同意せざるをえないだろう。世の中の大抵の人間は、そうだとしても。
「わたしはもっと、努力をすべきなのかな?」
志花は言った。
「努力?」
僕はそこに含まれているものをはっきりさせるために、訊いた。
「社会と交わるような努力。誰かを必要とするような、誰かに必要とされるような努力」
「……つまり、まともに働いて、まともに給料をもらって、まともに生活して、ということ?」
こくん、と彼女はうなずく。
「早い話が、きちんと就職するってこと?」
「――まあ、そういうことだと思う」
僕は志花のほうを見た。
ぼんやりと足を投げだして座ったまま、彼女はどこか地面のほうを眺めていた。体を小さく揺すって、今にもそこから転げ落ちてしまいそうに見える。もしもそうなったら、王様の馬と家来をみんな集めても、元には戻せないだろう。
「それについては、何とも言えない。良いほうに作用するかもしれないし、悪いほうに作用するかもしれない。」
僕は判断を保留した。
「でも、そういう経験も必要だって思わない?」
志花は自信なさげに言う。
「――うん」
少なくとも、僕には何とも言えなかった。山月記的な主題だ。臆病な自尊心と、尊大な羞恥心。多彩な人生経験は役には立つだろうけど、それが必要条件かどうかはわからない。ミステリ作家が毎回、殺人の実証実験をしているわけではない。
「わたしはただ、自分の書きたいと思ったことを書いているだけ」
と、志花は聴罪師にでも告げるようにして言った。
「それは的外れなことや、独りよがりの言い訳でしかないのかもしれない。他人にとっては、何の価値もない、言われるまでもないような話。そしてわたしは、誰かが必要とするものや、誰かが読みたいと思えるようなものを書こうとしているわけじゃない。正直なところ、そうしようと思っても何も書けないの。ただの一文だって、頭の中から出てこなくなる。だって、わたしにわかるのは、わたしのことだけであって、他人のことなんかじゃない。他人がどんなふうにものを考えたり、何を欲しがっているのかなんてわからない」
僕はただ、黙って耳を傾けていた。
「だからわたしは、自分の書いたものを誰かが読みたがるなんて想像もできない。……じゃあ、わたしのしてることって、何なんだろう? 自己満足のための、時間の浪費? 自分だけが安全な場所から世界を眺めているだけの、卑怯者の行為? でも――」
彼女はまるで、自分自身を押し潰すみたいにして言った。
「わたしにはほかに、望むことなんてない」
美術館の静けさには、何の変化もなかった。いくら願いをかけてみても、星が何の答えも返してこないのと同じで。世界はいつだって、僕たちに無関心だ。
「たぶん、わたしは間違ってる」
志花はそっと、花でも摘むみたいな静かな声で言った。
「――でもその間違いを、わたしは愛しすぎてしまった」
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