9(太陽を磨く方法)

 その日の夜、僕は尾瀬に電話をかけてみた。特に用事があったわけじゃない。錆びついた風見鶏でも、時々はその向きがどっちなのか気になるものだった。

「何だ、どうかしたのか?」

 電話の向こうで、脳天気そうな声が聞こえる。年間降水量の少ない、ひどく陽気な口調だった。

 さしあたって、僕は怪我の具合について訊いてみた。尾瀬の話によると、すでに退院して家で暮らしているという。ギプスと松葉杖の生活は、快適きわまりないそうだった。階段の上り下りはヒマラヤ登山なみに難しいし、風呂に入る手間も省くことができる。隔靴掻痒を文字通りに体験することもできるし、おまけに松葉杖という便利至極なアイテムも入手することができた(借りてすませることはできなかったらしい)。

 確認するまでもないことだったけど、尾瀬の天気はいつものごとく晴れだった。

 そんなことはスフィンクスの出してくるなぞなぞと同じくらいどうでもよかったにしろ、妊娠二ヶ月の雅のほうはどうかというと、こちらはそれなりに大変そうだった。とにかくいろいろと気を使うし、考えることもある。業務を簡単なものに変えてもらって仕事は続けていたけど、先のことをどうするかは決めていない。おまけに未来の父親は、不吉な予言でも実現するみたいに足の骨を折るしまつだった。

 そんな話が一段落してひとまず話題が尽きた頃、僕は何の気なしの口調で訊ねてみた。

「お前は、志花の書いたものを読んだことがあるか?」

「芦本の?」

 急に話題が変わって、尾瀬は枕に乗せていた頭の位置を変えるみたいにして言った。

「高校時代のことか?」

「ああ、そうだ」

 記憶を呼びだすための、短い時間が流れる。

「あるよ、中身はあまり覚えてないがな」

「――読んだとき、どんなふうに思った?」

 僕が訊くと、尾瀬は難しいパズルでも前にしたみたいに黙った。どこから手をつけるべきか、慎重に考えるような気配がある。

「一言でいうと、しんどくなるな」

 尾瀬は、やがて言った。

「俺はお前たちみたいには本を読む人種じゃないから、何とも言えないけどな。ただ俺の記憶にある印象では、そういうことになってる。雅の書いたものを読んだこともあるけど、それは大抵、バカらしいか、何だよこれって笑う程度のものなんだよな。俺なんかから見ても。けど芦本のやつは、しんどかったよ、何か。読みにくいとか、面白くないとか、そういうことじゃないんだ。でも何でだか、そういうふうに感じたんだよな」

 僕は電話のこちら側で、しばらく黙っていた。一人暮らしのアパートには、見覚えのない空白があちこちに澱んでいる。掃除の行きとどかない家に、埃がたまっていくみたいに。

「どうかしたのか?」

 尾瀬は電話の向こうで、明るさの変わらない声を出した。

「いや、何でもない」

 僕はちょっと目をつむってから、そう答える。

 病院で貸した本のことについて訊ねると、非常に面白かった、ということだった。それはよかった、と僕は言って、同じ著者の書いた別の本も薦めた。

 ――読むべき本があるというのは、いいことだった。



 高校時代の志花について、僕は多くを知っているわけじゃない。

 前にも言ったとおり、僕と彼女はクラスが別々だった。同じ文芸部ではあったけど、三年間、彼女の教室での姿は見たことがない。

 でもそれは、簡単に想像できる種類のものだった。

 第一に、部室にいるときですら、彼女はまわりとは馴じんでいなかった。ほとんど個人的な話もしないし、無駄口もきかない。暴力的だとか、完全に無関心とかいうのじゃない。そうだとしたら、問題はもっとずっと簡単だったろう。

 彼女はただ、どうしていいのかわからないだけだった。姿も言葉も違う、火星人たちがまわりにいるみたいに。

 何かを訊かれれば礼儀正しく答えるし、仕事があれば文句も言わずに参加する。反抗的な態度も、慇懃無礼な口のききかたも、批判的で皮肉っぽいそぶりを見せることもない。少なくとも、よく知らない人間の前では――

 彼女はほとんどの時間を一人ですごしていた。そうしている時だけが唯一、心穏やかでいられるみたいだった。彼女にとって学校での日常は、ルールのわからないゲームに参加させられているようなものだったのかもしれない。自分では参加したいとも思っていないゲームに。だから彼女にできるのは、可能なかぎりそのゲームの邪魔をしないことだけだった。

 時々、僕には彼女が透明になって、そのまま消えてしまうんじゃないかと思えることがあった。あるいは、本人がそう望んでいるような気のすることが。例えいつも一人でいて、すべてのことがどうでもよさそうに本を読んでいたとしても。

 そんな彼女に、まともな友達なんて出来るはずもなかった。一人でいることを望み、一人でしかいられないような人間に、まともな社会生活なんて送れるはずがないのだ。たぶん彼女は、虎や河童にでもなったほうが、まだましだったのかもしれない。

 その一方で、彼女はいろんなことに苛立ってもいた。

 思考の欠如、正義の不在、合理性の排斥、不合理の氾濫、公平さの軽視、礼儀と節度に対する遵守違反――そんなことに対して。

 そして何より、そんなことに苛立っている、自分自身に対して。

 ――僕には、そんな彼女がひどく危うい場所に立っているように見えた。


 たぶん僕は、彼女にとって数少ない友達の一人だったのだけど、それは大体次のような経過をたどってのものだった。

 ある日――確か、何かの機会に部室の掃除をしていたときのことだ。

 先輩も同級生もいなくなって、部屋には僕と志花の二人だけしか残っていなかった。元々、人数も少なかったし、ほかの部員は荷物を取りにいったり、ごみを捨てにいったりしていたのだろう。時計を見たら、たまたま数字がそろっていたみたいな、そんなささやかな偶然によるものだった。

 天井の埃をはたいたり、本の並びをそろえたり、机の位置を直したり――窓は開いていて、透明な青空がその先につながっていた。すべてのことはどこか遠くにあって、世界は平和で、静かに眠っている。

 彼女はその時、壁にかけられた鏡のほうへ向かった。たぶん、汚れか何かを取ろうとして。

 鏡には、不思議なくらいの鮮やかさと確かさで、太陽が映っていた。沈みかけて、少し疲れたような様子で。何だかそれは、そこに本物の太陽が閉じ込められているみたいに見えた。

 その鏡に捕らえられた光を、彼女はそっと拭った。まるで、太陽そのものを磨くみたいに。

「まるで、ディオゲネスだな」

 と、僕はぽつりと言った。

「ディオゲネス――?」

 彼女は不審そうな顔で、振りむく。

「古代ギリシャの哲学者。樽の中に住んだり、日中にランプを灯して人間を探したりして、狂えるソクラテスなんて呼ばれたりもしたけど、アレクサンダー大王が誉めてる人」

「……それと、何の関係があるの?」

 訊かれたので、僕は続けた。

「アレクサンダー大王は、ある時彼のもとを訪ねて訊くんだ、〝何か欲しいものはないか?〟って。もちろん、大王にとって彼は虫けらみたいな存在だった。でもディオゲネスは言うんだ。〝そこをどいてくれ、陰になって太陽の光がささないから〟って」

「ん――ああ、なるほどね」

 志花はしばらく考えてから、鏡の中の太陽を見て言った。

「太陽をよこせ、ってわけだ。タカトーって、案外いろんなことを知ってるのね」

 間違ってなのかわざとなのか、彼女は僕のことをそう呼んだ。そして現在まで、僕のことをそんなふうに呼ぶのは、彼女一人だけだ。

「案外、は余計だよ」

 僕が笑うと、彼女はそれに応えるようにして笑った。それは普段の彼女からすると、驚くほど柔らかくて、子供っぽくて、無防備なものだった。

 ――そんなふうにして、僕は彼女の世界に存在する数少ない人間の一人になった。


 もちろん僕は、同じ文芸部員として彼女の書いたものを何度も読むことになった(そして僕の書いたものも、もちろん同じことになった――けど、ここではそのことは省略する)。

 最初のほうでも言ったとおり、彼女の書くものはいつも一方的で、テーマが感傷的すぎて、表現力には十分な深みというものがなかった。部員の中でも特に評価されることはなかったし、もちろん学校で彼女のことが有名になることもなかった。そもそも、文芸部の機関紙になんて、注目する人間はいない。神に呪いをかけられて、誰も言うことを信じなくなった憐れな女予言者と同じで。

 でも僕は、そんな彼女の文章が個人的には好きだった。確かに幼稚な感じや、専断的な文章もあったけれど、それでも。

 彼女はいろいろな場所に、何かの印をつけるみたいにして文章を残していた。森に捨てられた子供たちが、精一杯の目印を置いていくのと同じで。僕はそんな目印を拾い集めながら、彼女の道筋をたどることができた。彼女がどんな場所にいて、どんなことを思っていたのかを――

 それに彼女は、書くことに対してはあくまで真剣だった。いつでも常に正しいことを、最高のことを書こうとしていた。そのために、できるだけ自分の感情をコントロールしようとしていたし、邪魔になりそうなものは事前に排除したり回避したりしようとした。

 でも、そうしたことがうまくいかずに文章が書けなくなると、彼女は苛立った。というより、彼女の苛立ちのほとんどは、思い通りに文章が書けないことに原因があった。それは彼女にしょっちゅう起こることだったし、そのたびに彼女は自分の心臓を叩いたり、虚しく深呼吸を繰り返したりしていた。

 それでもどうしても文章が書けないときには、彼女は平気で自分を傷つけ、恫喝し、罵った。

 彼女は自分を抱えているのだけでも精一杯だった。そこに、ほかの誰かや何かを入れる余裕なんてなかった。ましてや、世界の重みを支えるのなんて、怪物の首を見せられて石にでもしてもらわなければ不可能だった。

 そうして今でも、彼女はその行為を続けている。不毛で、何の意味もなくて、誰も必要としてくれないとしても――

 彼女は一度、僕に向かって言ったことがある。人間に火をくれた優しい巨人が、ついうっかり秘密をもらしてしまったみたいに。

「たぶんわたしは、死ぬまでこうして書き続けているんだと思う――天国まで持っていけるものを、集めておくために」

 彼女の文章は、冬の夜に空を見上げるみたいにきれいなところがあった。そこでは澄んだ暗闇の中で、結晶になった光がいくつも瞬いている。そしてそんな文章のうちのいくつかは、消えることなく僕の胸の中を照らし続けていた。

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