7(世界をきれいなままにしておくということ)

 定時になったので帰り仕度をしていると、豊条さんに声をかけられた。

「――どう、調子は?」

 どうやらそれは、この前の飲み会の挨拶を茶化してのものらしい。

「悪くないですよ、もちろん。これから頭のたくさんある蛇を退治に行く、というほどじゃないですけど」

 僕は貴重な保管庫の中にしまってあるうちでも、できるだけ見栄えのいい笑顔を浮かべた。

 豊条さんはすでに帰り仕度は終えているらしく、机の上もすっかり片づいていた。ほかの部署ではまだ何人かが残って、残務処理にあたっていた。一体、豊条さんが僕に何の用があるのかは、不明。

「ちょっと話があるんだけど、かまわないかしら?」

 豊条さんは、勤務時と特に変わらない口調で言った。

 その様子からは、やはり何の用事があるのか判断はできなかったけど、僕は机を片づけてしまいながら言った。

「もちろん、恋の相談ならいつでものりますよ」

 豊条さんはややきょとんとした顔をしたけど、微苦笑よりは指一本ぶんだけ好意的な笑顔を浮かべた。

「君にそんなユーモアがあったとは知らなかったわね」

「ユーモアのある後輩は嫌いですか?」

 今度は、豊条さんはちょっと肩をすくめただけだった。どうやら、豊条さんにとってユーモアは人生の必要条件ではないらしい。あるいは、僕の発言がユーモアの必要条件を満たしていないか、だった――後者の可能性が高い。

「話はすぐに終わるから、駐車場まで歩きながらにしましょう」

 言われて、僕はうなずく。これ以上余計なことを口にして、ロバの耳に変えられたりはしたくなかった。

 僕たちは連れだって、市役所の裏口に向かう。どこの部署も仕事の片づけに追われて、その辺を象が歩いていても気にしないくらいの慌ただしさがあった。廊下で同じように退勤途中の職員とすれ違って、挨拶をかわす。

 裏口から外に出ると、まだ青空があって明るかったけど、そこには日暮れの気配が含まれていた。音の響きはどこか遠く、光には目に見えない翳りが滲んでいる。この時間になると、空気は急に冷たくなっていった。

 駐車場は道路の反対側にあるので、横断歩道のところに向かう。僕も豊条さんも、コートを着ていた。歩行者用の信号は、いかにも機械的な態度で赤を示している。

「昼間、彼女が来てたわよ」

 不意に、豊条さんは言った。

 僕はちょっとぼんやりしていて、豊条さんの言葉の意味がすぐにはわからなかった。

「……彼女、ですか?」

「時々、来てた子。君のことを訪ねて」

 考えるまでもなく、それは志花のことだろう。

 昼間、僕は所用でちょっと席を外していた。反古紙を隣町のごみ処理場まで運ぶ、というそれだけのことだけど、どうやらそのあいだに志花が訪ねてきたらしい。

「何の用だか言ってましたか?」

 僕は訊いてみた。

「さあ、それは聞かなかったわね。伝言しておこうかって言ったんだけど、それはいいからっていう話だったし」

 志花が一体何の用でやってきたのか、僕はちょっと考えてみた。本の補給は、しばらくは大丈夫だろう。古本屋にはこの前行ったばかりだから。かといって、ただの雑談をするために職場を訪ねてくる、というのは考えにくかった。むしろ、そういうことは過度に遠慮するほうなのだ。

 だとしたら、一体――

 そんなことを逡巡していると、僕はふと豊条さんの視線に気づいた。

「つかぬことを聞くみたいだけど、あの子って君の彼女?」

 豊条さんは珍しく、ちょっとからかうような微笑を浮かべている。

 けれど僕は、ほとんど間を置かずに答えた。特に迷いも、衒いもなく。

「たぶん、違いますね」

「そう?」

「志花は……志花ですから」

 ふうん、と豊条さんは納得したような、まだ疑義が残るような、そんな顔をしている。

「でも、なかなか可愛らしい娘さんじゃないかしら?」

 と、豊条さんは続けて言った。

「志花が、ですか?」

 僕はちょっと変な顔をして訊き返す。

「そうよ、そう思わない?」

 重ねて訊かれたので、僕はあらためて志花のことを考えてみる。記憶の底が裏返るくらい探っても、志花に「可愛らしい」という要素は見つからなかった。ほかの要素に関してなら、余計なくらいにあるのだけど。

「なかなか母性本能をくすぐられるわよ、あの感じは」

 豊条さんは、僕の凡俗な意見など求めても仕方がないと思ったのか、自分でそう言った。

「隠しきれない弱さみたいなのが滲みだしていて、つい放っておけなくなっちゃうんでしょうね。傷ついた小鳥とか、雨に濡れた猫とか、そういうのを保護したくなるみたいに」

 そう言われて、僕は志花が一人で市役所に来ている姿を想像してみた。

 ――彼女には、そういうところがある。

 自分の領域外のことや、知識外のことについては、極端に臆病になるところが。いわゆる引っこみ思案というやつなのだけど、志花の場合は少し違っている気がする。彼女にとってそれはどちらかというと、人として正常な反応なのだ。それが、望ましくすらある。

 つまり志花にとっては、僕たちみたいな「普通の人間」のほうがおかしいということになるのだった。宇宙人から見たときに、地球人が奇妙な習慣を持っていることや、不合理な肉体をしていることと同じで。彼女はいまだに、他人のことをよく理解できずにいる。

 いずれにせよ、現実としてそれは、志花に借りてきた猫みたいな態度をとらせる。それが結果として、豊条さんみたいな感想にもつながるのだろう。

 信号が変わって、僕たちは前に進んだ。

 駐車場はすぐそこで、とめてある車の位置は離れている。だから入口のところで、僕たちは別れることになるだろう。そう思っていたら、豊条さんは立ちどまって、僕のほうを振りむいて言った。

「あの子、高藤たかふじくんがこの前の飲み会で話してた子でしょ?」

 不意に言われたので、僕は一瞬返答に窮してしまう。

「……ええ、そうですけど」

 僕は辛うじて、そう答えた。

 それから、僕と豊条さんのあいだで妙な間があく。例の半神の英雄が、巨人の代わりに無理をして天空を支えているような間だった。僕は空が落ちてこないうちに、質問した。

「豊条さんは、志花のことをどう思いましたか?」

 訊くと、豊条さんはちょっと空を見上げてから答えた。空はゆっくりと、静かに、その重さを変えつつある。

「たぶん、彼女は世界をきれいなままにしておきたいのよ」

「……何か話したんですか?」

 僕は訊いてみる。

「ううん」

 と、豊条さんはごく簡単に首を振った。

「でもね、すぐにわかるわよ、そのくらい――わかっちゃうのよ」

 豊条さんの言葉は、それだけだった。空はもう、正当な担ぎ手の肩に戻っていた。夕暮れの気配は、いっそう濃くなりつつある。

 それから、僕と豊条さんは別れて、それぞれの家に帰っていった。

 運転する必要があるのか疑問になるくらいの距離を移動して、アパートに戻る。僕は一人暮らしの寒々しいドアの音を聞きながら、部屋に入ってテレビのスイッチをつけた。便利な機械の箱からは、今日もカラフルな音があふれている。

 でも豊条さんの口にした言葉は、もう固まってしまったセメントみたいに、いつまでも僕の中に残り続けていた。

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