6(r戦略者)

 志花の好物は、チョコレートである。

 それは彼女にとって、精神と肉体に関する大いなる滋養の一つだった。地球がその安定のために、常に太陽の存在とその光を必要としているみたいに、志花はその魂のためにぜひともそれを必要としていた。

 何しろ、彼女は朝食どころかしょっちゅう昼食まで抜いていたから、栄養源にはいつも不足していた。彼女がまがりなりにも活動していられるのは、夕食だけはきちんと摂っているのと、チョコレートという代替物のおかげだった。それに本人に言わせると、チョコレートは「精神をまともに保っているのに必要なもの」なのだそうだ。

 僕は差し入れのチョコレートを持って、志花の家に向かった。時々、様子見もかねてそんなふうに遊びにいくことがある。ついでに、何か本でも借りていくつもりだった。

 差し入れといっても、持っていくのはごく普通の市販品だった。その辺のスーパーやコンビニで買えるような代物だ。彼女にとって必要なのは、質よりも主に量だった。本を買うときにも、そうであるみたいに。

 いつものように車一台分の細い道を通って、彼女の家に向かう。今日はどちらかというと、秋っぽい天気だった。何かがひっそりと終わりつつあるような、そんな気配がある。

 到着すると、僕はいつものように自宅前のガレージに車をとめさせてもらった。スーパーの袋を持って、玄関のほうに歩いていく。庭の様子が何か違うな、と思っていたら、木が一本丸裸に剪定されていた。

 僕は玄関の扉を開けて、声をかける。

 足音がして、志花が出てくるのかと思ったら、違っていた。それは彼女の母親である、芦本衣枝あしもときぬえさんだった。

「あらあら、尚くんいらっしゃい」

 衣枝さんは、娘のほうとは似ても似つかない朗らかさで言った。

「志花はいますか?」

 僕は特に気にせず訊いた。志花の母親とは顔見知りだったし、別に僕は大地母神の娘を攫いにきた冥府の神というわけじゃない。

「それが、今ちょっと買い物に出てるのよ」

 衣枝さんは困ったように言う。

「買い物?」

「夕飯の買いだしにね。晩ご飯を作るのは、あの子の仕事だから」

「……そうですか」

 と言って、僕は少し考えた。なら出直すか、荷物だけ渡して帰ったほうがいいかもしれない。喫緊の用事があるというわけでもないのだ。

 そう思って僕が口を開こうとすると、衣枝さんのほうが機先を制するみたいにしてしゃべっていた。

「買い物っていっても、そう時間はかからないから、しばらくお茶でも飲んで待っていればどうかしら?」

 そう言う衣枝さんの顔には、童女のように無邪気な笑顔が浮かんでいた。

 衣枝さんのその微笑みは、大抵の人間なら無視できない種類のものだった。冬の寒い日に、人々が自然と暖炉のまわりに集まってくるみたいに。僕は時々、それがちょっとした兵器なんじゃないかと思えることがある。

 この前も、僕は同じようにして衣枝さんにお茶をごちそうになることになった。その時に聞かされたのは、こんな話だった。

「――キノコバエは、卵を作らずに幼虫が幼虫を生むって、知ってた?」

 衣枝さんは上品な仕草でお茶を飲みながら、そう言った。

 もちろん、僕はそんなことは知らない。そう伝えると、衣枝さんは音楽家が曲のテンポを守るみたいにして、慌てず急がず、かといってもったいぶりもせずにこんな話をしてくれた。

 衣枝さんの話によると、キノコバエは文字通りキノコを餌にするハエの一種だそうだ。このキノコバエは、通常なら多くの昆虫と同じような成長過程をたどるのだけど、十分な餌があった場合のみ、その生活史は激変する。

 つまり、生まれた幼虫は成虫になる前に幼虫を生みはじめる。それも、最終的に母親はその子供たちに肉体を内側から食い尽くされてしまう。餌の不足が起こらなければ、この宿業は永遠に繰り返されることになる。

 かなりぞっとする話ではあるけど、これは不安定な食糧源に対しての適応的な進化といえるのだそうだ。こういう種をr戦略者と呼ぶのだそうだけど、人間がそうでなくてよかったとは思う。

 どうして衣枝さんがこんな話を知っていたのかはわからない。ちょっと、謎の多い人なのだ。テレビか何かで見たか、誰かに聞いたのだろうとは思う。衣枝さんは、志花のようには本を読むタイプではなかったからだ。

 ――何にせよ今回もやはり、僕はその誘いを断わりきれなかった。そんなのは、憐れな詩人の妻を冥界から無事に連れ戻すようなものなのだ。

 僕は居間に案内されて、そこのテーブルの前に座った。最近リフォームしたという室内は、まだ動きはじめたばかりの時計みたいに新品だった。アイランド型になったキッチンの向こう側で、衣枝さんはお湯を沸かしたり、お茶の準備をしたりしている。

 やがて紅茶とクッキーが一皿、僕の前に置かれた。何となく、空気にきれいな色がついたみたいな香りがする。衣枝さんは同じように紅茶だけを用意して、僕の向かい側に座った。

 衣枝さんは、志花とはあまり似ていない。

 いや、もちろん顔とか目の感じとかは似ているのだけど、雰囲気は全然違っている。志花を深海魚とすると、母親のほうは熱帯魚だった。棲んでいる海の深さが違う。共通点といえば、二人ともわりとやせているということくらい。

 僕は紅茶にちょっと口をつけてから、質問してみた。

「さっき、志花が夕飯を買いに出かけてるって言ってたのは?」

「ああ、それね」

 衣枝さんはまるで、僕が気の利いたことでも言ったみたいに笑う。

「あの子、私が作る料理が雑だって言うのよ。切りかたとか、具材の大きさとかがね。だから晩だけは自分が作るって」

「志花に料理なんてできるんですか?」

 正直なところ、僕にはその場面がうまく想像できなかった。

「あら、けっこうおいしく作るのよ、あの子……性格のせいかしらね?」

 志花にはああ見えて、かなり几帳面なところがある。勘だって、悪くない。レシピがあれば、かなり正確にそれを再現することはできるだろう。

「買い物も自分で? でも志花は、自動車は使いませんよね」

 僕は訊いた。

「近くにスーパーがあるから、そこまで自転車で行ってるのよ。近くっていっても、こんなところだから一キロくらいはあるのだけど。あとは私もそれとは別に買い物に行くから、足りないものはないわね。あの子、私が買ってくると量が違うとか、これじゃないとか言って怒るんだけど」

 何となく、それは想像ができた。

 僕は一言断わってから、クッキーを口に入れた。たぶん手作りなのだろうけど、けっこう本格的な味がした。もしかしたら、これも志花が作ったんだろうか。

「仕事は必要でしょ?」

 カップを両手で持ちながら、衣枝さんは言った。

 不意に言われたので、僕は一瞬その言葉の意味がわからない。難しい数式でも、見せられたみたいに。一応、それが志花のやっている夕飯の仕度のことなのだろうとはわかる。

 でも、衣枝さんの言葉が何を含意しているのかはわからなかった。僕は曖昧にうなずいておく。

 衣枝さんは紅茶を一口飲んでから、言った。

「することがないっていうのは、一種の悲劇だと思わない? ある意味でそれは、存在しないのと同じなのよ。そりゃ、あの子は小説を書いてる。したいことをしてる。でもそれは誰に頼まれたわけでも、誰かに必要とされてるわけでもない。それは仕事とは違うのよ」

 衣枝さんは小さな音を立てて、カップを皿に戻した。

「誰かのため、自分以外のもののために何かをするっていうのは、結局のところ人間にとって必要なことなんでしょうね。この世界にっていうのは、しんどいことなのよ、実際。人は自分で自分を支え続けるようには出来ていない。きっと私たちの魂には、重力よりずっと強い力が働いてるんでしょうね。普通の人間には、そんなことは耐えられない。そんな場所では立ち続けていられない。でもあの子が今やってるのは、そういうことでしょ――」

 僕は衣枝さんの言葉を、静かに聞き続けた。部屋の中を照らす太陽の光は、ほんの少しだけその密度を変えていた。太陽はいつだって、僕たちのことなんて無関心に、定められたその運行を続けるだけだった。

「衣枝さんとしては、志花には何か仕事に就いてもらいたいと思ってるんですか?」

 僕は訊いてみた。

「そうね、そのほうが望ましいでしょうね」

 衣枝さんはごく落ち着いた声で言った。

「じゃあ、どうしてそうしないんですか?」

 訊くと、衣枝さんは少し笑うような、少し悲しむような、そんな顔をした。

「あの子にとって、それは難しいでしょうね」

「難しい?」

「――あの子はね、理解できないことはしたくないのよ」

 衣枝さんはちょっと迷うようにして言った。

「自分で正しいと思えないことには、手を出すことができない。すべてを理解したうえでないと、答えが出せない。失敗するのが嫌だ、と言ってしまえばそれまでだけど、たぶん本当はもっと複雑なことなんでしょうね。ある意味では良心的だし、ある意味ではナイーブすぎる。時間も、世の中も、答えが出るまで待ってくれるわけではないから。たぶんそれは、私にも責任があることなのだけど」

 言葉が終わってから、僕は小さく首を振った。

「でも、それこそ悲劇みたいなものですよ。もしも答えがなければ、志花はずっとこのままってことになります」

「……あなたは、どう思う?」

 衣枝さんは不意に訊いてきた。

「あの子は、本当はどうすべきなのか」

 僕は口を閉じて、意味もなく紅茶の表面を見つめた。そこには琥珀色に色づいた世界が反射しているだけで、もちろん答えなんてどこにも記されてはいない。

「志花がこのままでどうなるかは、わかりません。どうあるべきなのかも」

 と、僕はやや吶々と語った。

「でも、彼女が何を求めているのかは知っています。そのために小説を、を書いているんだということも。彼女の求めているのは、ささやかなものです。本当にささやかなのに、何故かこの世界ではそれを得るのが難しいもの。でも彼女が求めているのは、なんです。書こうとしているのは、だけなんです。例え自分以外の人間が、そんなものには見向きもせず、を求めてはいないのだとしても」

 僕はそこまで言ってから、何だか急に混乱してしまった。自分がひどく見当違いのことをしゃべっているようにも思えたし、内容も支離滅裂な気がした。こんな言葉しか出てこないのなら、口にするべきじゃなかったのかもしれない――

 けれど、衣枝さんは否定も迷惑がりもせずに、僕の言うことを聞いてくれた。そしてごく穏やかな声で言ってくれる。たぶん、感謝のようなものさえ込めて。

「私には、あの子の何もかもがわかるわけじゃない。だからきっと、あなたのほうがあの子のことを深く理解してくれているところがあると思うの。そしてあの子は、それを必要としている」

 衣枝さんはにこっと笑った。花の蕾があったら、つられて開いてしまいそうなくらいに。その笑顔はやっぱり、志花とは似ても似つかない。

「あの子は私には何も言わないし、たぶん言えないんでしょうね。私には言っても仕方のないことだから」

 ほんの少しだけ寂しそうに、衣枝さんは言う。「誰にでも好きにしゃべる、っていうわけじゃないのよ、志花は」

「……何となく、わかります」

 僕はうなずいてみせた。

 それから、衣枝さんはどこか満足したような顔で言った。

「――できれば、これからもあの子の友達でいてね、尚くん」

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