5(残念ながら、それは現在進行形の話だった)
「――悪いな、見舞いに来てもらって」
場所は、病室。四床ある大部屋で、僕はその窓際のところに座っていた。
窓の外には、殺風景な街の風景が広がっている。大抵の風景画家なら、見向きもしないような代物だ。病院の玄関と灰色の駐車場があって、そこでは僕の乗ってきた車が、他人行儀な顔で待機していた。
時刻は昼食が終わったところで、どのベッドもカーテンは開けっぱなしになっていた。病床は、すべて埋まっていた。病気という以外には共通項のない人間がこうして集まっているというのは、考えてみると何だか奇妙な感じではある。入口のほうのベッドにも、僕と同じような見舞い客がいた。
「たいしたことないのに、気を使わせちまったな」
と尾瀬は言った。
「そう思って、手土産は持ってこなかったよ」
「じゃあ、それはまた今度頼むわ。フェラーリがいいな。快気祝いとかで」
尾瀬はしれっとした顔で言う。
「快気祝いってのは確か、治ったほうがするんだぞ」
「そうなのか? まあ、細かいことは気にするなよ」
「気にしたほうがいいのか、気にしないほうがいいのか、どっちなんだ?」
僕は尾瀬と同じように、適当にまぜっかえしておく。
この男の名前は、
台風が来てもびくともしない風見鶏を思わせるような、まっすぐ前を向いた目。人並みはずれたというほどではないにしろ、がっしりした体躯。全体的に、人とは違う、何か特別な材質ででも作られているような男だった。
僕と尾瀬は高校の頃からの友達で、ちょっとした因縁もあって親しくしていた。ただし、クラスや部活がいっしょだったことはない。この男は高校時代、主にバレー部に所属していた。主に、というのはほかにも野球やらバスケやらにも手を出していたからだ。運動神経がよくて、やりたいと思ったことには何にでも挑戦する性格だった。何となく、キマイラ的な感じがしないでもない。
そしてそんな男が大学卒業後についたのは、工業デザインという仕事だった。何故かは知らないけど、ウィリアム・モリスの作品に感激してのことらしい。節操がない、ということに関しては節操のある男だった。
「しかし、俺もどうかしてるよな。足を折っちまうなんて」
尾瀬は不意に、しみじみと言った。
ベッドの上に横たわる尾瀬は、右足にギプスをして吊りさげていた。よくある光景だけど、一口に骨折といってもいろいろと種類がある。
単純骨折ならギプスで固定するだけで大抵はすぐに帰れるけど、尾瀬の場合は金属で骨を接合しているので、まずその手術で入院しなくてはならない。それに治ってからも、金属を抜く場合はまた手術をしなくてはならないし、痛みがなくなって完全に運動能力を回復するまでには、かなりの時間が必要になるはずだった。
それでも本人が言うように、重傷というほどのものではない。一週間程度で退院できるし、たぶん元通りの生活がおくれるようになるだろう。とはいえ――
「何で、足なんて折ったんだ?」
事前におおまかなところは聞いていたのだけど、僕は一応訊いてみた。
話によると、尾瀬は公園にある遊具のデザインを任されたらしい。何とかプロジェクトの一環ということだったけど、ともかく新人の尾瀬としては一路勇躍して奮起すべきところだった。
「いや、俺も迂闊だったんだがな」
と、尾瀬は苦笑するように言った。
遊具をデザインした尾瀬は、さっそくその試作品を作ってもらった。何でも、楽器をモチーフにした遊具だったらしい。実物は見ていないので、僕には説明できない。実物を見ていても、怪しいところだ。その遊具を実際に使用しているときに、尾瀬は足を折ったのだという。
「欠陥品じゃないのか、それ」
僕は未来の子供たちのために憂慮しながら言った。
「俺としても安全面には気を配ったんだがな」
と尾瀬は反省するような声で言った。
「頂上からバク転で飛び降りたら、着地に失敗して折っちまったんだよ。骨の折れる音ってのは、はじめて聞いたけどな」
そりゃ折れるだろう、と僕は心の中で嘆息する。
「それは、どういう使用法を想定しているんだ。子供がそんなことすると思うのか?」
「しないとはかぎらないだろう」
尾瀬は至極まじめな顔で言った。
「製品てのは、すべからくそういうものだ。使用者が設計者の思ったとおりに行動してくれればいいが、なかなかそうはいかない。使いかたが一目でわかるのが理想だが、それは難しいところだ。だからこそ、安全面・機能面でのデザインが必要になる」
「…………」
まるで名言でも吐いているような雰囲気だけど、それでもバク転はしないだろう。
僕たちがそんなことを話していると、病室に新しく人がやって来た。その人はまっすぐこちらに向かってくる。
「ああ、
その人は、女性だった。というか、もっと便利で俗っぽい言葉を使うなら、尾瀬の〝嫁さん〟ということになる。
彼女の名前は、
尾瀬と僕にまつわる因縁というのは、彼女に関するものだった。いささか野暮ったくはあるけれど、僕は例の太陽の神より強い弓を持った子供の役を仰せつかったのだ。
高校時代、雅は僕や志花と同じ文芸部に属していた。尾瀬がどうやって雅のことを知ったのかは謎だけど、そのあとで僕に話しかけてきた理由は明白だった。つまり、僕に恋の仲介役になって欲しい、というのだ。
かなりバカバカしくはあったけど、僕は結局それを引き受けた。尾瀬信吾というのは、そういう男なのである。
はじめ、雅は尾瀬のことになんて目もくれなかった。月桂樹にこそならないけれど、どこかの美しいニンフみたいに。何しろ尾瀬というのは、か弱い乙女が影ながら恋慕うようなタイプの男ではなかったのだ。
ところが、尾瀬は諦めなかった。断わられても、ことあるごとに雅に言いよった。つまり、そのたびごとに僕が呼びだされた。
それはうんざりするようなことではあったけど、同時に何か心動かされることでもあった。僕は次第に、尾瀬のことを応援しはじめていた。それが応援なのか、不毛なやりとりに対する諦念なのかはわからなかったけれど。
それで結局どうなったかというと、僕が目の前で見ているとおりのことになった。三年という月日はいささか長すぎるような気もするけど、卒業前に二人はつきあいはじめた。
かくのごとく想像以上に一途な男なのだ、尾瀬というのは。そして自分の望んだことは、必ず実現させる男でもあった。それが三十八万キロ離れた月に行って、帰ってくるようなことだったとしても。
「ごめんね、うちの旦那がこんなことになったばっかりに」
雅は缶ジュースを尾瀬に手渡しながら、にっこりと笑った。どうやら、そのジュースを買いにいくために席を外していたらしい。
ずいぶん時間はたっていたけれど、雅の笑顔には高校時代と同じものがあった。春の日に、青空の下でたんぽぽの綿毛をふっと飛ばすような、自由で柔らかな雰囲気だ。それは、いかなる批判からも埒外にあるような、そんな笑顔だった。自然な強さと弱さが併存しているような、そんな。
雅は尾瀬とは対照的な、どちらかというおっとりしたタイプの人間だった。ショートボブに、普段着らしいカーディガンを着た格好は、良くも悪くも飾っていない。その辺に咲いている、野の花みたいに。
「申し訳ない、非常に反省しております」
尾瀬は僕の時とは打って変わった、ひどく神妙な顔つきで言った。
「本当だよね、こんな時期に入院だなんて。右足のほうも空気が読めないっていうのかな」
雅はおかしそうに笑いながら、ベッドの脇にあったイスに座った。その動作は心持ち、慎重なものだった。
僕はあらためて、雅の姿を眺めた。
神様がよこした例の不吉な箱と同じく、その外見をいくら眺めてもわかりはしなかったけど、雅は妊娠していた。いわゆる、二ヶ月目というやつ。誕生から四週間が過ぎて、エコーで胎児の心臓が確認できる時期だった。そして、妊娠中では一番危険な時期でもある。
「調子はどんな感じ?」
と、僕はあまり深刻には聞こえないようにして訊いた。
「まあ悪阻っぽいのもあるし、頬がちょっと赤くなったりもしてるけどね」
そう言われて、僕ははじめて気づいた。確かに、雅の頬はほんのり赤くなっている。
「――でも、人生ってそういうものでしょ?」
と、雅はおどけた仕草で肩をすくめた。
「何でもかんでもうまくいくわけじゃないし、何でもかんでもひどいことになるわけでもない。心の持ちかた次第で、愛しくも、憎らしくも思える」
雅はそう、強がりにでも、不安げにでもなく言った。
「それに私の体は、もう準備ができている。心のほうは、これから何とかしていくつもり。でも、大丈夫。すべては大丈夫なように出来ているから――」
それから僕たちは、近況報告やら最近の出来事やらについて話をした。時間がたって、そろそろ帰ろうかという頃、僕は一冊の本を取りだして尾瀬に渡した。
「何だ、これ?」
「この前、古本屋で苦労して見つけたものだ。お前にやるよ」
「――『フェルマーの最終定理』?」
尾瀬は題名を口にした。
「いい本だよ。残念ながら、余白が少なすぎて説明はしてやれないけどな」
「よくわからないが、感謝しとくよ。時間のほうならたっぷりあるからな」
尾瀬は尾瀬なりの丁重さで言った。まあこれを読んでも、さすがに数学者になりたいとは思わないだろうけれど。
本のことで連想したのか、雅はふと思いついたみたいに訊いた。
「……そういえば、志花はどうしてる?」
尾瀬も雅も、県内ではあるけど地元からは離れた場所で暮らしている。デザイナーとして仕事をしていきたかったら、小さな田舎町で隠居しているわけにはいかないのだ。
「まあ元気にはしてるよ、一応。骨も折ってないし」
僕はやや曖昧な言いかたをした。
「そっちに戻ってるんでしょ。今、何をしてるの?」
と、雅は当然の質問をする。
「――夜中に短いバイトをして、それから小説を書いてる」
僕は正直に答えた。
「志花、まだ書いてるんだ」
雅はちょっと驚いたように言った。どちらかというと、素直に感心している様子だ。
「高校で会う前から書いてるんだもんね……何だか、懐かしいな。今は、どんなもの書いてるのかな? 昔から、私たちなんかより本格的な作品をつくってたものね。うん、懐かしいな――」
残念ながら、それは志花にとっては現在進行形の話ではあったけれど。
「まあ何にしろ、志花には文才があるから大丈夫だよね」
と、雅は無邪気そうな口調で言った。
「……そう願いたいけどね」
僕はあまり気のりしないまま、そう答えた。
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