4(終着駅では電車はもうどこにも行かない)

 市役所の公務員だろうと、一流企業の重役だろうと、仕事をしていることに変わりはない。

 仕事をしているということは、仕事仲間がいるということだ。

 となれば、何らかの集まりが生じるのは当然の帰結だった。親睦のためだろうと、ストレス発散のためだろうと、理由のほうはあまり問われることなく。

 そんなわけで僕は今、料理屋の二階座敷にいた。机には各種アルコールやら料理が並べられて、全体では十数人くらいの人数がいた。要するに、飲み会ということだ。

 僕の所属する市民課には、片嶋かたしまさんという宴会好きの課長がいて、その人がしょっちゅうこういう会を開いていた。

 勤続二十年目の片嶋さんにはどういう人脈があるのか、市役所中の職員からメンバーを集めることができる。どこかへ戦争に向かう偉大な王が、各地から兵士を召集して軍団を組織するみたいに。

 そういう集まりが特に嫌いでない僕は、誘いがあれば大体は参加するようにしていた。

 飲み会ははじまってから三十分くらいが経過したところで、座の雰囲気はだいぶ砕けていた。誰かが手をすべらせて割ってしまった、花瓶みたいに。主催者である片嶋さんは、人事課の職員に向かって給料の査定について何か抗議していた。それで俸給があがるとは思えなかったけれど。

 みんな酒がまわって、席次もかなり乱れていた。僕は同期の男と三人ほどで雑談していたけど、ふと向こうの席で豊条ほうじょうさんが一人なのを見つける。

 豊条依子ほうじょうよりこさんは、同じ市民課の窓口係に所属する先輩だった。僕が仕事の手順を習ったのは、この人からだ。だからというわけではないけれど、一種の親近感がある。コンラート・ローレンツの言う、インプリンティングみたいなものかもしれない。

 僕は適当に機会を見つけて、いったん席を離れた。レモンサワーの入ったグラスを持ったまま、豊条さんの席に向かう。

「どうですか、調子は?」

 アルコールが入っているせいもあるだろうけど、僕は自分でも何だかよくわからない声のかけかたをした。

「――悪くないわよ」

 豊条さんは気にしたふうもなく、軽く笑う。

「隣、かまいませんか?」

 訊くと、豊条さんはお節介なコオロギにでも話しかけられたみたいに肩をすくめる。別にかまわない、ということだろう。

 さっぱりと短く切った髪に、どこか造形美を感じさせる姿勢のよさ。クールというか、達観しているというか、ちょっと神秘的な占星術師を思わせる雰囲気をしていた。詳しくは知らないけど、僕より二つくらい年上のはずだ。

 僕は豊条さんの隣に座って、話をはじめる。同じ仕事をしているから、話題にはさほど困らなかった。最近やって来て難儀したお客さんとか、書類の書式に関するちょっとした疑問とか、仕事のとか。そのあいだに、私的なこともいくつか訊いた。

 実のところ、僕は豊条さんのことについて詳しくは知らない。それは僕だけじゃなくて、おそらく市役所の誰もが。たぶん、かぐや姫の正体についてと同じくらいに、

 年齢はともかくとして、出身はどこなのか、どんな生い立ちなのか、家族構成、現住所、地元の人間なのかどうかさえ。一般企業にしばらく勤めてから、市役所にやって来た、ということだけは聞いていた。転職した理由は、不明。

「豊条さんて、休みの日とかは何をしてるんですか?」

 僕はかなり凡庸な質問をしてみた。

「映画を見たり、音楽を聴いたり、そんなところね」

 ちびりちびりと熱燗を飲みながら、豊条さんは言う。

「最近見た映画で、面白かったものはありますか?」

「……『デッドプール』かしら」

「そこは、もうちょっとマイルドな作品にしとけませんか?」

 しばらくのあいだ、僕は豊条さんと映画の話をした。

 ――それから気がつくと、僕はこんなことを訊いていた。

「僕には友達が一人、いるんですけどね」

「いるでしょうね、それは」

「その友達は、小説を書いてるんです。というか、本人に言わせると小説みたいなものを」

「悪くない趣味ね」

 豊条さんは笑う。

「それでですね、そいつは現在無職で、ほとんど家から外に出ないんです」

「あらあら――」

「たまに外出するっていっても、古本屋に行くくらいで、それも僕が車に乗せていってやるんです……休日に」

「それは災難ね」

「運転するくらいは別にどうってことないんですけど、このままで大丈夫かな、と思うんですよ。小説を書く以外、ほかに何かをしてきたわけでも、何かをしようとしてるわけでもないんですからね――豊条さんだったら、そんな友達をどうします?」

「私だったら?」

 豊条さんは意外そうな顔をする。

「ええ」

 僕がこくんとうなずくと、豊条さんはちょっと考えるようにうつむいた。その格好は美術的な均整がとれていて、そのまま彫像にして残しておきたくなるくらいのものだった。

 やがて、豊条さんは言った。

「私ならその人の主張を優先するわね」

「つまり、今のままでいいってことですか?」

「まあ、そういうことになるかしら」

「……どうしてです?」

 僕が訊くと、豊条さんは首を傾げた。

「理由が必要?」

 その言葉のあと、僕と豊条さんのあいだで一瞬、間があった。映画のフィルムが一時的に途切れるみたいな、そんな間だ。その空白が埋まると、座敷のあちこちからたった今を外したみたいに、ざわめきが聞こえてくる。

「でも、僕としては――」

「その人って、女の子でしょ?」

 豊条さんは僕の言葉を遮った。

「……ええ、そうですけど」

 答えて、そこで会話は終わる。終着駅について、電車がもうどこにも行かないみたいに。豊条さんはごく自然な様子で熱燗を口にした。僕もつられるように、グラスに口をつける。

 そのうち別の女子グループが豊条さんに話しかけてきたので、僕はそれを潮にして席を立った。ついでに店員さんに尋ねて、トイレに向かう。

 僕が座敷に戻ったとき、中の様子に特に変わりはなかった。みんなが酒を飲んで、騒いで、笑っている。ごく一般的で、正常な飲み会の様相だった。

 ――でも僕はふと、志花のことを考えていた。

 彼女がこの景色の、どこかにでもいることはあるだろうか。誰かと談笑し、酩酊し、この場にいることを楽しむようなことが。

 おそらく、それは絶対にありえないことだった。転がり落ちる岩を山の頂上に押しあげる王が、ついにその頂に到達するみたいに。

 さっきの同期の男たちに呼ばれて、僕はその輪に加わった。一人の男が最近あったおかしな出来事を語って、みんなが声を上げて笑う。僕も、それはもちろん。

 夜は賑やかに、誰に気づかれることもなく更けていった。

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