3(血と鉄の散文的表現)

 志花が本屋に行きたい、と言った場合それは「つきあって欲しい」というような叙情的な意味あいではなく、「足を貸して欲しい」というごく即物的な要求を意味する。

 血と鉄をあくまで散文的に表現するのと同じで、要するにそれは、車の運転をお願いしたい、ということだった。

 とはいえ、実のところ志花は運転免許を持っている。家には自由に使っていい車だってある。それでも自分で運転しようとしないのは、本人に言わせると次のようになる。

「――子供を轢きたくないから」

 どうやら、教習所の啓発ビデオはその効力を発揮しすぎたらしい。ジプシーのおばあさんに占ってもらうまでもなく、彼女にはいつかそうなるであろうという確信があった。だから、移動はもっぱら自転車ということになる。まあ、環境にも健康にも、そのほうが優しくはあるのだろうけど。

 僕は休日の午後、昼食を終えたところで、住んでいるアパートをあとにした。地元なので実家は近くなのだけど、僕は一人暮らしをしている。あまり意味はないけど、まあこっちのほうが気楽ではある。

 志花が市役所まで押しかけてきたのは、昨日のことだった。彼女が本屋ですごす時間は半日くらいにはなるから、午後の時間いっぱいくらいは目安にしなくてはならない。

 それなら、わざわざ直接職場にまで来なくても、電話なりメールなりですませばよさそうなものだったけど、彼女は何故かそうしない。そんなことは人倫に悖る、というのだ。大抵の人には、その理屈がわからない。僕にもわからない。たぶん、電子的な通信手段に何か恨みでもあるのだろう。

 志花の家は、街の中心からはだいぶ外れたところにある。街の中心といっても、目印でもなければ見落としてしまいそうな程度のものだった。ここはまあまあ田舎の、地方都市なのだ。そこからさらに外れているのだから、あとは推して知るべし、というところだった。

 僕は車を運転して国道に出て、そこから県道に進み、順調にグレードを下げて細い道に入った。昔は田んぼだったらしい藪と、まばらな民家のあいだを走る。スピードはかなり落としている。向こうから車が来ても、すれ違うようなスペースはなかった。

 何とか無事に彼女の家まで着くと、駐車場にとめさせてもらって志花を呼びにいく。ずいぶんと、天気はよかった。彼女の家のまわりには庭やら畑があって、十月にしてはずいぶん生命力にあふれていた。ナスやピーマンはともかく、赤いトマトがまだ実をつけている。

 ちょっと古くはあるけど歴史というほどのものはない、というのが志花の実家だった。僕は玄関の扉を開けて、声をかけた。すでに待っていたらしく、彼女はすぐに姿を見せる。

「もう、行けるのか?」

 すでに靴を履いている志花に向かって、僕は訊く。

「うん――」

 何だか急いでいるような不機嫌さで、志花は言った。

 何なのかと思ったら、廊下の奥から志花の母親が顔を見せていた。どうも釘を刺されたらしい様子で、小さく手を振っている。僕は軽く笑って頭を下げた。高校の頃にも、こんなことがあった気がする。

 志花はもう家の外に行ってしまっていたので、僕が玄関の扉を閉めた。迎えに来させたうえでの扱いとしては非道きわまるものだったけど、まあいつものことだ。

 小さな中庭を抜けて、古びた柵のついた門扉を通る。さすがに志花は、僕の車の横で待っていた。それくらいの分別はある。

 僕が運転席に着くと、志花もドアを開けて助手席に座った。そして無言のまま、シートベルトを締める。僕はエンジンをかけて、ハンドルに手を置いた。

「さて、どうするんだ?」

 神殿で託宣でも受けるみたいに、僕は訊いた。

「いつものとこ」

 志花の答えは短い。余計な解釈のしようもないくらいに。

「……てことは、遠くのほうに行ってから、近くか」

 僕はすぐさま、解読する。

「そう」

 答えは、やはり短い。

「オーライ」

 僕はサイドブレーキを外して、車を発進させた。予想通りとはいえ、志花のお決まりのコースだった。もちろん、道順のほうは間違いない。どこかの迷宮みたいに、王女のくれた糸球が必要なわけでもなかった

 十月後半にしては、かなりの陽気だった。僕が窓を開けると、反対で志花も窓を開ける。陽射しと風の混ざり具合は、気の利いたバーテンダーが配合したみたいにちょうどよかった。光も空気も透明で、ずっと奥まで透きとおっている。そしてそこには、来るべき冬の季節も感じられた。

 車は細い道から県道、国道へと逆の道順をたどって走っていった。交通量が増えてくると、のん気に窓も開けていられない。僕も志花も、窓は隙間が少し空くくらいにしておいた。入ってくるのが太陽光線だけになると、少々汗がにじむ。

 僕の、というか、志花の目的地は本屋だった。といっても、それは古本屋のことをさしている。県をまたいだ隣町にいくつか古本屋があって、彼女は主にそこをまわる。それが、彼女のお決まりのコースだった。

 普段、車に乗らない彼女の移動手段は、もっぱら人力であるところの自転車に頼られている。ところが、僕たちの地元にあるものといえば、あまり規模の大きくないリサイクルショップが一つきりだった。こんなのでは、ペルシアをあっというまに征服してしまったどこかの大王みたいに、すぐに行くところがなくなってしまう。

 そこで、志花は本を求めて遠征することになる。しかしそこまでの道は遠い。インドほどではないにしろ、自転車では手に(足に?)あまる距離なのだ。そこで思い出されるのが、僕という存在だった。

 はじめは僕も、その理不尽な要求についてはどうかと思った。どこかに適当な監獄があれば、襲撃していたかもしれない。

 でも結局は、こうしてすんなり言うことを聞くようになった。

 その辺の事情は、自分でもうまく説明できない。志花は自分の要請を通すために、強談したり、愁訴したわけじゃなかった。彼女は何も言わなかったし、僕に無理強いもしなかった。

 でも実際問題としては、彼女にそんな頼みごとができる相手が、ほかにいるはずもなかった。ロビンソン・クルーソーほどじゃないにせよ、彼女にはまともな話し相手さえいないのだ。そしてそれを知っているのは、僕だけだった。

 運転手代わりに使われることそのものには、特に実害はない。第一に、それはそう頻繁にあることではなかった。そして少々遺憾ではあるけれど、僕の休日の予定は今のところずっと白紙だった。

 そんなわけで、僕は志花といっしょになって古本屋へ向かう。考えてみると、地中海を漂流するほどではないにせよ、奇妙な話だった。

 国道をまっすぐ走っていると、志花はしかめっ面をして左右のこめかみを指で押さえていた。たぶん、頭痛がするのだろう。高校の頃からそうだったけど、志花は頭痛持ちである。どうも、まだ治っていないらしい。

 しばらくして、道は市街地に入っていった。信号に停められて、車の流れはだいぶ遅くなる。古の昔から変わることなく続く、渋滞というやつだった。

 その時、不意に志花が口を開いた。

「――あの車のやつ、バカなんじゃないの」

 何のことかと思って視線の先を探ると、すぐにそれがわかった。

 前のほうに停まっている一台の車の窓から、ごみが投げ捨てられている。空き缶だの煙草の吸殻だのが、中央分離帯の植え込みに放り込まれていた。もしかしたら、その場所は車の持ち主の住居なのかもしれない。もしそうなら、僕としては文句をつける義理はなかった。

 隣に座った志花のほうを見ると、ひどく憎々しげな目でその光景を眺めていた。習字用の薄い半紙くらいなら、突き破ってしまいそうなくらいに。

 ――彼女には昔から、そんなところがあった。

 もちろん、普通の人間にしたって無言の非難くらいはするし、眉をひそめもする。義憤に駆られ、悲嘆に暮れるだろう。世界の大半は、そうはいっても正義と公平で出来ている。

 でも彼女の場合は、そういうのとは少し違う。

 志花は本当にいろいろなものに腹を立てていて、その都度口汚く罵った。停まれるはずの赤信号で直進する車とか、訳のわからない空ぶかしをするバイクとか、意味もなく乗り捨てられた自転車とか、路上にごみを捨てていく不届き者とか。

 そんなものに対して、彼女はどうしようもなく頭にくるみたいで、律儀に心を煮えたぎらせていた。風船にどんどん空気を送り込むのと同じ要領で、体を破裂しそうにしながら。

 隣にいると、彼女のそんな様子は実によくわかった。僕は他人事ながらも難儀な性格だな、と昔から同情していた。怒りというのは奇妙な感情で、いつだってお互いを傷つけてしまう。ちょうど、拳骨で人を殴ると自分の手も痛くなるのと同じで。

 いったん社会人になってからも、彼女のそんな性格はまるで変わっていなかった。どうやら彼女は、人や物事を許すということを学びそこねたらしい。それはそれで、しんどいことではあったろうけど。

「――――」

 黄金の林檎をもらいそこねた女神みたいに不機嫌な志花の横顔を、僕はうかがってみた。

 年齢を感じさせないというよりは、たんに歳をとりそこねたような風貌。特殊な矯正器具が必要そうな、どこか世界とかみあっていない瞳。拗ねた子供みたいな、何かを我慢している子供みたいな、そんな表情。朝になってもまだ青空で光を放っている星を思わせる、ちょっと場違いな雰囲気。

 志花は昔と、少しも変わっていなかった。幸か、不幸か。もしも変化したところがあるとすれば、それは首のところで束ねられた髪型くらいのものだったろう。

「信号、青になったわよ」

 彼女はシートに深くもたれながら、ふてくされたような声で言った。もちろん、この世界の悪事をいくら弾劾したところで、のないことくらいは彼女にもわかっている。

「――ああ」

 僕は適当に返事をして、車を発進させた。

 再び景色は移動をはじめ、透明な陽光はくるくるとその輝きを変えた。十月の終わりにしては強い陽射しの中には、それでも確かに、来るべき冬の気配が含まれていた。


 古本屋での買い物は、志花にとって物資の補給を意味した。比喩的に、というよりは、どちらかというと実際的に。

 志花に、これといった趣味はない。旅行だとか、サーフィンだとか、各種スポーツだとかいったアグレッシブなものから、パズル、ゲーム、お菓子作りといったインドアなものまで。

 彼女にとって唯一の趣味といえるのは、読書だけだ。限定的な用途に使われる工具みたいに。

 それも実際には、実益をかねている。何かを書こうと思ったら、何かを読むのが一番いい。そうすれば知識も得られるし、文章の工夫もしやすくなる。テーマやその立てかた、構成やストーリーテリングといったことだってわかるだろう。何より、いい本を読むことが、書きたいという気持ちの涵養につながる。

 とはいえ、実体験のほうはどうなんだ、とは僕も思う。自分の部屋で本ばかり読んでいたって、限界というものがあるだろう。時計を眺めれば時間はわかるけど、その仕組みまで理解できるわけじゃない。

 しかしもちろん、これにだって反論はできる。例えば南極に行ったり、セノーテ(南米によくある特徴的な泉のこと)に潜ったりしたことのある人が、どれだけいるだろう? 無人島で生活したり、馬がしゃべる国に行ったことのある人は?

 すべてのことが体験できるわけじゃないし、本当にそれが必要なのかどうかもわからない。虹が何色あるのかさえ、僕たちは実際に確かめたわけじゃない。

 ともかく、彼女は健康志向の人間が野菜をよく食べるみたいに、よく本を読んだ。一般的な消耗品とは違うけど、本だって消費される。消費されれば、そのぶんだけ補給されなければならない。

 そのために古本屋を利用するのには、いくつか理由がある。

 まずはやはり、経済的な問題だった。ハードカバーでも文庫本でも、定価で購入すればそれなりの代価が必要になる。けど古本屋でなら、それが五分の一とか、二分の一ですむ。つまりは同じ資本でも、それだけ多くの本が買えるわけだった。王様なら奢侈が仕事のようなものだけど、仕立て屋のほうは場合によって、空想の糸やからっぽの織り機を使わなくてはならない。

 廉価であることはくわえて、それだけ本が買いやすくなる、ということでもあった。つまり、精神的に。本の価格は、その内容や質、相性をかんがみると、必ずしも適正とはいえない。神の見えざる手は、そんなことにまで世話をやいてはくれないのだ。

 だから本を購入するときに迷いや葛藤が生じるわけだけど、その値段が安ければ心理的閾値は低くなる。つまりは、後悔という名前のダメージが減る。そして、そのぶんだけ本が買いやすくなる。

 そんなわけで彼女は大量の本を、それも可能なかぎり安い値段で必要としていた。そうすれば、古典的名作から近代的駄作まで、気になった本は好きなように買うことができるからだ。ある意味では、木の枝からプラスチックまで、何でも利用して巣を作る鳥みたいに。

 僕たちが古本屋に着くと、彼女はさっさとカゴを持って書籍コーナーの棚に向かった。何となく、職人めいた真剣さがその足どりにはある。僕は特に急ぎもせず、同じようにそのあとを追った。

 古本屋といっても、そこは堆積した時間の層が埃っぽい重なりになっているような、秘密の裏店めいた場所じゃない。あくまで即物的でコンビニ的な、いわゆるリサイクルショップだった。

 でも志花にとって必要なのは、希覯本や本棚を飾るための本なんかじゃなかった。彼女が求めているのは、その中身だけなのだ。文章の情報価値は、手垢がついたりリボンで飾りたてられる類のものじゃない、というのが彼女の基本的な意見だった。まあ、多少の異論もなくはなかったけれど。

 休日だけあって、書籍コーナーにはいくつかの人影が立っていた。そうした人たちは、みんな示しあわせたように一人で、深海の魚みたいにひっそりと書棚の前に立っていた。何となく、死後の世界の一場面に出てきそうな光景ではある。

 志花ほどではないにせよ、僕も本は読む。とはいえ、別にわざわざ古本屋で買う必要はない。給料はもらっているし、それといっしょには時間をもらっていない。読みたい本があれば、ちゃんとそれが置いてある書店で探す。

 僕は適当に棚を眺めつつ、気になった本を手にとってみた。意外と、よくわからない本が並んでいたりするのが不思議だった。「ぶんこ六法」なんて、誰が売りにきたのだろう? やたらにぶ厚いけど、値札の表示は百円だった。この値段なら、確かに買ってみてもそれほど気にはならない。例え司法試験に挑戦する気がなかったとしても。

 外国文学のところにあったフランダースの犬を読んでいたら、志花がやって来た。彼女はブラウスにロングスカートという格好だったけど、何故だかそれはひどく野暮ったい感じがした。どういうわけか、どこかの田舎にいそうな女教師を連想してしまう。

 僕たちは何かの競技の途中みたいに挨拶もせず、そのまますれ違った。すべての棚を一通り見てまわるのが、彼女のスタイルだった。題名を見て、気になった本があれば手にとり、あらすじを読んでぱらぱらとページをめくる。それが多少なりとも気になる本であれば、あとは値段次第になる。多少でなく気になる本でも、値段と気分次第では棚の中へと戻される。

 すべての棚をまわって、一通りの検閲をすませるのに、大体二、三時間くらいかかった。彼女としてはそれでも急いでいるのだろうけど、もちろんただ待っているだけだといささか長い時間ではある。本の一冊くらいなら読めてしまえるところだ。

 これが「遠くのほう」のことで、もう一軒「近く」にも行く。

 彼女の手順はどちらも大体同じだけど、こちらのほうが規模が小さいので、かかる時間は漸減する。亀に追いつけないどこかの英雄と同じで、事態そのものは変わらなかったけれど。

 結局、志花は両方あわせて何十冊かの本を買った。ちょっと、冬の巣ごもりに備える熊に似ていた。比喩的にというよりは、どちらかというと実際的に。

 お駄賃、ということなのだろう、何冊かならおごってあげてもいいわよ、と言われたので、僕はその言葉に甘える。棚から抜きとった本を数冊渡すと、志花はあまり興味のなさそうな目でそれを見た。たぶんもう持っているか、彼女の求める水準には届かない本だったのだろう。

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