第8話 終わる物語
舞台袖に降りて最初に感じたことは、確かな恐怖だった。部屋を見渡してみても、話し声どころか、ささやき声すら聞こえない。それどころかオーディションの参加者たちは皆、ただただ壁際に立ち尽くしていた。
おかしい。
もう一度、ゆっくりと全員の様子を眺める。やはり感じる強烈な恐怖。私はそれから逃れようと、床だけを見ながら演者たちが身を寄せ合う壁際を目指して歩きだした。
「春石さん」
皆のところまであと数歩、と言うところで声がかかる。いや、きっと聞き間違いだろう。
「少なくとも2回。ばっちり目が合っていたはずですが?」
はい、そうですね。有馬さんの仰る通りです。
背中の後ろから呆れたような声と深いため息が聞こえる。そして目の前からは、漏れ出てしまったであろう安堵の吐息。
「春石さん、早くここに座ってください。他の皆様は、これでオーディション終了です。合否については追って、それぞれの事務所にご連絡させていただきます。お疲れさまでした」
――お連れ様でした。
そう言って、意外にもあっさりとオーディションは終わりを迎えた。私を除いて、だけれども。
「本当に信じられません。一体、何を考えているんですか。女優が簡単に顔の傷を作るなんて、下の下の下。本当に最低中の最低です」
丁寧な治療の合間合間に続けられるお説教。
「ほんほうに、おうひあへ、あいあへんえひあ」
「謝るくらいならやらないでほしかったですね、全く。ちゃんと反省していますか?」
有馬さんはガチャガチャの景品にありそうな小さい懐中電灯を使って、喉を丹念に調べている。気持ちは嬉しいけれど、治療するか
ちなみにアンは別部屋で治療を受けているそうだ。ずるい。いや、もちろん心配ではあるけれども。
「春石さん、いつまで情けない顔してるんですか。とりあえず大丈夫そうですけれど、このあとちゃんとしたお医者さんに診てもらってください……って聞いてます?」
「え?」
すでに診察は終わっていたようだ。開きっぱなしの口を、何事もなかったかのように閉じる。
「あはは……あの、本当にすみませんでした」
改めて謝罪する私を見て、有馬さんは鼻息をひとつ鳴らした。
「大丈夫そうですね。では、私はこれで失礼します。アンさんの方も気になるので」
そう言うと、有馬さんは救急箱を手にして私に背を向ける。慌てて私も立ち上ろうとしたところで、急に彼女が振り返った。そしてなぜか視線を私の隣に流し、早口で付け加える。
「あとこれはあくまで私個人の感想ですが。先ほどの舞台、あなたたち二人だけが舞台の上で確かに生きていた、という感じがしました。とにかく、観るぶんにはとてもステキでしたよ」
お疲れさまでした、と最後に頭を軽く下げると、彼女は返事も聞かずに背を向けてしまった。
机に手を置き中腰のまま、言われた事を噛み砕く。ようやく身体全体に言葉が行き渡った時にはすでに、有馬さんは部屋を出ようとしているところだった。
「あのっ! ありがとうございました!」
その背に向かって、深く一礼。
――きぃ、ばたん。
初めてだ。この仕事を始めて、初めて認められた。奥歯を強く噛んでも、表情が緩むのを止められない。胸の内側を無性にかきむしりたい気分だ。
「アンタねぇ。あんまり調子に乗らない方がいいわよ」
聞き覚えのある声が聞こえた気がする。でも今はそれどころじゃない。今から追いかけて、土下座でもしたら合格にしてくれないだろうか。
「……ちょっと、聞いてるの? アンタのためを思って言ってあげてるんだけど」
返事をしない私に苛立ちを募らせたのか、彼女は私の左腕をつかむ。うっとうしい。
思考の邪魔をされたくなくて、振り払おうと力を入れた瞬間、私は肩から崩れ落ち膝をついていた。
「……あぁ、私を拘束してた人か。さっきもこれくらいしっかりと捕まえていても大丈夫だったのに」
見上げるように顔をのぞくと、キツネを思わせる細い吊り目が私を見下ろしていた。赤茶色のウェーブがかった髪も相まって、怒りの感情がはっきりと見て取れる。
「あんたって、本当……」
「まぁまぁナツ、落ち着こうじゃないか。それに暴力は……ね。姫様も考え事をしていたんだろうし、ここは穏便にいこうじゃないか」
掴まれた腕にさらに力が入ったところで長身の女性が割って入る。彼女はこともなげに赤毛の女性――ナツさんの肩をたたくと、私の方を首だけ捻ってちらりと見る。
さすがは王子様、困った時は本番じゃなくても助けに来てくれるのね。
何もケンカがしたいわけでもないので、ありがたく王子の提案に乗ることにする。それに今のやり取りの間にも、有馬さんに土下座でお願いするタイミングは遠のいてしまったはず。はぁ、本当に残念。
「ごめんなさい、ナツ、さん? ちょっといろいろと考え込んでしまっていたわ。無視するつもりはなかったの、本当にごめんなさい」
しっかりと頭を下げる。
「え、いやまぁ私の方こそ突然悪かったわ。と、とにかく、今日が私の実力だと思わないことね。次は負けないんだから!」
そう言って彼女は私の手を離すと、どっかりと離れた場所の椅子に座った。なんてわかりやすい人なんだろう。
掴まれていた手首を振りながら王子に目をやると、腰に手を当ててニヤニヤと笑っていた。
「うまく立ち回れなくて悔しかったからって当たるのは良くないな」
「
「いやぁ、失礼失礼。ナツがあんまりにもテンプレート通りの受け答えするからさ」
「なっ……ばか! もう、ほんっと信じらんない……はぁ。とりあえず大丈夫そうだし、もう行くわ」
「え、あ、はい。お疲れさまでした」
付き合ってられないとばかりに、ひらひらと手を振って部屋を出ていくナツさん。結局「――何で私に話しかけたんだろう、かな?」
「ふふ、あの娘は優しいからね。君が心配だったんだよ。私がけがをさせたって聞かなかったからね。なんにも彼女は悪くないのに。私だったら『黒崎さーん! もう、行きますよー!』――おっと、ここまでのようだ」
どんどんと暗く濁っていく瞳が、扉の外から聞こえてきた声により光を取り戻す。そして内緒話をするかのように一歩分だけ私に近づくと、ポツリとつぶやいた。
「またね、おてんばなお姫様。チャンスがあれば、全力でその頭を蹴飛ばしてあげる」
そう言って去っていく黒崎。私はその粘ついた、呪いをかけるような声に何も言えず、動くことも出来なくなっていた。
「お互い、ずいぶんと嫌われたものですね。まぁ、あんな演技をしたら同業者に煙たがれるのは当たり前です。慕ってくれるのなんて、アタシくらいのもんですよ全く」
「アン! いつから? いや、それより大丈夫だった?」
「大丈夫も何も、なーんにもないですよ、ほら」
思わぬ後輩の登場にわたわたと慌てる私をからかうようにシャツを
「えぇ……なんでなんで? うっそぉ、かんっぜんに
「……私もですよ」
私
「持ってみればいかにも本物な重さ。先端にはささくれみたいな本当に小さな針。ある程度力を入れて押し込まないと刃先が引っ込まず、血糊があふれない仕組み。本当、製作した小道具さんの顔が見てみたいですね」
「アン、あの――
「先輩。受付ロビーで森監督が待っているそうですよ。治療が終わったら来るようにって」
「えっ?」
急な話題の切り替えに話がよめない。けれど彼女はこれ以上話すつもりはないようで、私を見つめ続けるだけだった。
「あぁ、うん、わかった」
「待たせちゃダメですからね。ほら早く。行った行った」
確かに監督を待たせるのは良くないだろう。アンとはまだまだ話したい事はあるけれど、今はその時じゃない。またあとで電話でもすればいいか。そう軽く考えている私に、アンが声をかける。
「……ねぇせんぱい。これはアタシからのお願いであり、忠告であり、そして脅迫です」
――女優、今日で終わってくれませんか?
アイドルらしいあどけない笑顔で、彼女はハッキリとそう言った。
タルチェフは誰? キョウ・ダケヤ @tatutamochi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。タルチェフは誰?の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます