最終回 花弁に隠して

 今となってはもうだいぶ昔の話になってしまったが、最初に島崎が死んだ。彼は以降、夢の中に幾度か現れ、奇怪な姿を見せて私を苦しめた。中でも一番恐ろしかったのは、私は夢の中で数珠を付けていて、ふと手首に巻いた数珠を見下ろすと珠の一つ一つが島崎の顔になっていた夢だった。その顔は絶頂を迎えた時のような、恍惚とした表情に満ちていた。

 

 彼の死は特に悲しくもなかったが、私の人生に「死」の匂いを擦り付けたように思える。

 福山の死に、私は怒りは感じなかった。ただ、遣る瀬無さと無力を痛感させられただけだった。あれだけ豪快だった男の人生の最期は誰にも言うことなく、ひっそりと山の中で終焉を迎えたのだ。遺族と会社側との裁判は未だ続いているようで、そんな状況報告を含めて時折連絡をくれていた金田はついに父親になったのだと言う。

 その後会社を辞める事はなく、彼は無事主任試験に合格したとの事だった。


 丸々とした女の赤子の写真が送られて来た事があったが、面長の金田ではなくゆっこに似て良かったな、と思いながら私はその写真をゴミ箱に投げ入れた。


 大戸の母親の死は私が与えたようなもので、あの母親が死んだ瞬間から私はこの人生に見切りをつけたような気がする。あれからはもう、足掻く事すら止めてしまった。沖縄にまで出向いてあの母親を死に追いやった行為は、遺族を代表したつもりは全くなく、あくまでも大戸に対しての私なりの回答だったつもりだ。大戸に「同じ目をしている」と言わせたのは、その通りなのかもしれなかった。


 そして、最も予期せぬ形で私にとって最愛の女が死んだ。私とさえ出会わなければ、若くして命を落とす事も無かったのかもしれない。


 愛してる、と何回言い合っただろう。女が死んだ後でさえ、愛してる、と何回言った事だろう。その言葉は今でも、決して愛していた、と変わる事はない。


 「ヒロは私が愛した人。それもずっと、忘れないでいて」


 女が願った想いは果たされている。意識などせずとも、その言葉が一日中私の頭を過ぎっている。眠りからふいに目を開けた瞬間から、眠りの淵から滑り落ちるその瞬間まで、ずっとだ。


 ささくれ立ち始めた和室の畳の目が服に、ボロボロとついている。転がる空き缶に群れる蝿が、私の目の前を掠めて行く。ヤニのせいで壁紙は黄ばみ、壁紙の端が浮き始めている。何処でどう間違ってしまったのだろう。何をどうすれば良かったのだろう。そんな事ばかりを考え、私はこの記憶を一つ一つ、埋葬しようとした。

 しかし、幾ら埋葬しようとも、不死の骸骨達は何度でも土の中から姿を現した。

 だからもう、私はその記憶を保管したままのこの身体を埋める事にした。そうする他はなく、それ以外に生きる意味もないように思えた。


 自死の恐怖に怯えながら、誰かに偶然殺される事を願ったりもした。大戸に頼めるなら、そうして欲しかった位だ。私は、女を殺したあの手で殺されたかった。しかし、司法の壁に阻まれ、その願いも虚しいものとなった。


 女の両親は私が知らない内に女が育った家を引っ越していて、それでも墓参りにだけは来ているようだった。しかし、もうそれだけで良かった。結婚報告をした時の、あの縁側は未だ残されているのだろうか。時折、あの美しい光景を思い浮かべる事もあった。


 私はある団体に私が死んだ際の手続き等を依頼し、それ相当の金を支払った。孤独死が増えた所為なのか、便利な世の中になったものだと感じた。

 私の母は昨年再婚した。スナックの常連客とそういった仲になり、熟年結婚を決めたようだった。特に用事もなく、実家にほとんど寄り付かなかった私はそれで親との縁が切れたような気持ちになり、二人を心から祝福した。


 終わらせるには様々な方法があるらしかったが、私は豪快だったあの男と同じ方法にする事に決めた。ホームセンターで手頃なロープを見つけて買った。それを買った時、私は癖で店員に対して愛想良くお辞儀なんかをしてみせた。それでも、準備だけは淡々と進めていた。


 ついに犯行動機などの真実は暴かれる事はなく、虚言と妄想の狂人となった大戸に死刑判決が下された。遺族会には顔を出しても居なかった私は、マスコミの前で涙を流す事は無かった。 

 死刑判決を受け、井筒が久しぶりに訪ねて来た。


「とうとう、判決が出ましたね。長い間、本当に色々とご迷惑をお掛けし、お世話になりました」


 慇懃に頭を下げる井筒に、私は静かに笑い掛けた。


「もういいんですよ。流石にね、整理がつきました」

「……とうとう引越しはしなかったんですね」

「ええ、妻との思い出はちゃんと持って置こうと思いまして」

「いつものお節介かもしれないですが、村瀬さん」

「はい」

「持って行こう、じゃなくて?」

「……」


 やはり勘が良く、機敏過ぎる井筒の言葉を私は否定も肯定もしなかった。井筒もまた、そんな私を受け入れているようにも見えた。大きくなったポトスに霧吹きを掛けている井筒を見て、私は心の中で深々と頭を下げた。


 もしも大阪へ経つ前に、女の変化に気付けていたのならば、私達は金田のようになれていたのかもしれない。女の身体にとって最後の希望を宿した種が芽吹き、私達はその芽に人生を捨てても良いほどの愛情を互いに注ぎ合う。やがて大きくなったその命が初めて話す言葉に感動したり、必死に歩こうとする姿に熱を上げ、いつか私達と手を繋いだりしてその成長を喜び合う。四苦八苦しながらもその命がやがて大きくなり、いつかの私達のように、最愛の人と共に姿を現す。 

 不器用な私は素直にそれを受け入れる事が出来ないでいるが、女に諭されて受け入れ、あの時の女の父のように、深く頭を下げる。

 そんな夢のような、ありふれた人生さえ、ついに私は手にする事が出来なかった。


 女が最後に私に伝えようとした「良い知らせ」は、そんな些細な幸せに近しいものだったのかもしれない。

 今となっては幸せどころか、私の日常は全ての終わりに向かって突き進んでいる。もう、目を開けている事さえも、苦痛で仕方がないのだ。目に入るもの全てが、女を、そして奪われてしまった未来を、否が応でも連想させるのだ。


 希望を見るのも、絶望を見るのも、何もかも疲れてしまった。


 全てを終わらせた後、女はこんな私を笑って受け入れてくれるだろうか。それとも、叱り付けるだろうか。もしかしたら、大戸に刺された事に憤慨していて、私に八つ当たりするかもしれない。それでも、私は受け入れられる。女の我侭を再び聞けるのならば、私は目いっぱいに涙を浮かべて喜ぶだろう。


 部屋を片付けた。井筒と共に掃除して以来だろうか、部屋の隅から隅までを綺麗にした。サッシの汚れ切ったアルミ枠さえも、濡れ雑巾で丁寧に拭き掃除したりした。


 綺麗さっぱり片付いた部屋を見回す。薄暗い窓辺に、ポトスのシルエットだけが浮かんでいる。

 見慣れた光景もこれで最後だと思うと、惜しいような、解き放たれたような、形容し難い気持ちになった。

 外へ出ると春の陽射しが生み出す柔らかな匂いが優しく、それは女の匂いと良く似ていた。

 バッグの中を確かめ、玄関に鍵を閉めた。郵便受けに鍵を入れ、私は二度と戻らないアパートを振り返る。


「絶対ここがいい!ロフトがある方、私が使うからね」

「別に俺はどっちでもいいよ。好きな方使いなよ」

「ねぇ、ここにソファ置くじゃない?で、テレビはここでしょ?」


 まだがらんどうだったアパートの部屋の中で、二人の未来設計図を女は夢中になって描き始めた。その姿に私と仲介業者の営業マンは苦笑いを浮かべている。


「何澄ました顔してんの?あんたとの生活なんだから真面目に聞きなよ!」


 そう言って怒られ、営業マンに背中を押された事すら、愛おしいのだ。けど、おまえのお気に入りだったあの部屋へはもう戻らないよ。ごめんな。そう、心の中で私は女に謝った。


 山へと続く住宅街の坂道には桜が並んでいて、盛大に花弁を散らせていた。その割にひとつも音を立てずに散って行く花弁を不思議に感じたが、それでも桜は生死を無視するほどに美しかった。


 坂道を上がり切ると、遊歩道から山へと登る小道が見えて来た。私と同じ歳くらいの母親と、黄色い帽子を被った小さな女の子が手を繋いで、木漏れ日に打たれながらこちらへ向かって歩いて来る。

 春らしい、暖かなその光景に私は心を和ませた。私のバッグにはそれとはまるで無縁の、麻のロープが入っている。

 小道が近づき、親子と擦れ違いになる。

 その瞬間、私は思わず声を漏らしそうになった。擦れ違った母親は、北海道に帰ったはずの尚美だった。


「友達だよ」


 そうやって私と自分自身に何度も言い聞かせていた尚美は、知らぬ間に母親になっていたのだ。そして、この地へ帰って来ていたのだ。何だ、そうだったのか……という気持ちと、彼女の作った家族の幸せを願う気持ちが同時に生まれた。

 もう何年も昔の話だし、彼女の携帯の番号も変わったまま、それきり縁も切れた。彼女を雑に扱った私の顔などもう覚えていないだろうし、きっと思い出したくも無いだろう。私がこのまま消えて、そして、彼女が永遠に私を思い出さないであろう事に、私は再び安堵した。友達と定義してしまった縁というのは容易く切れてしまうものなのだから、これで良かったのだ。


 私の事を想う人がもう居ないのなら、それが正解だ。この世界に何の悲しみも残さないうちに、私はやはり消えるべきなのだ。

 小道に入る前、ふと親子を振り返る。

 すると、尚美が子供を繋いでいない方の手を腰の後ろに回し、ピースサインを作って誰かに向かって振っているのが分かった。しかし、辺りを見回しても、私の他に人の姿は無い。それはきっと、私に向けられたものだった。 



 彼女は私を覚えていた。


 その途端に、私は小道の入り口の地面にほとんど無意識に崩れ落ちた。私はまだ生きていて、私を覚えている人が、まだあるのだ。

 木漏れ日の陽が暖かく、幾度も触れた女の温度と等しく、私の顔を打った。顔を上げて再び目を向けた親子は桜の花弁の向こうへ、消えて行く。

 ある夏の前、静かな夕方に女と交わした会話が蘇る。


「あんたにとっては私が生きる意味なの?」

「それが大半。死んだらなんて、まさか」

「ふーん。それはまぁ嬉しいんだけどさ、私が死んでもあんたは絶対生きててよ」


 その時の女の優しげな眼差しと、柔らかな声を反芻しながら、私は泣いた。吐く程に、泣いた。すると、次から次へと涙が溢れ出して止まらなくなった。路上に座り込み、嗚咽を漏らしながら、私は死んでしまった女の名を何度も何度も、繰り返し叫んで泣いた。


 私の愛した女はもう、この世界には居ない。しかし、女に愛された私はまだこの世界に居る。そんな当たり前の事が悲しくて、悲しくて、仕方がないのだ。


 それは暖かく、穏やかな春の午後だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

シザーゲート 大枝 岳志 @ooedatakeshi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ