5 お勉強開始
とにかく、情報が足りない。
一つだけ確実に分かっているのは、このまま何もしなければ断罪で処刑で破滅すると言うことだけ。
ゲーム本編の開始は、十二歳の貴族学院初等部入学の日。
つまりあとたった十年しかない。
でもまだ十年もある。
とにかくその間、足掻けるだけ足掻くしかない。
だから何よりまず、陰謀の背景になるオルレアーナ王国やゼンボルグ公爵、およびその派閥の貴族達について知ることが先決ね。
そのためには、早くたくさん言葉を覚えて、読み書きが出来るようになって、関連した本を読んで、人から話を聞くことが必須だわ。
そして一日も早く打開策を探すのよ。
「え~ま~、だっこ」
「お嬢様、今日は甘えん坊さんですか?」
両手を伸ばすと、エマがニコニコ笑顔で抱っこしてくれる。
優しく、まるで宝物のように抱き上げてくれたエマ。
その腕の中が心地よくて、思わずギュッとしがみつく。
お父さんやお母さんとはまた違う、お姉ちゃんに甘えているみたいな、甘やかされているみたいな感じがして、すごく安心する。
「本当に今日は甘えん坊さんですね。何かありましたか?」
首を小さく横に振る。
破滅と断罪の未来が待っているなんて、言えるわけがない。
エマがあやすように、ポンポンと軽く背中を叩く。
「では、ご気分を変えるために、このままお庭にでもお散歩に行きましょうか?」
それもとっても魅力的だけど……。
しがみついていた腕を放して、エマの顔を見る。
エマはとても優しい笑顔で私の顔を見つめて、どうしますかって聞いてきた。
「おと~しゃ……」
お父さん? それとも貴族のご令嬢らしく、お父様?
「……ま? いく」
「旦那様のところに行きたいんですか?」
「うん」
「ですが今、旦那様はお仕事をされていたかと思います」
「や! いく!」
だっていつから陰謀が動き始めるのか分からないのよ?
もしかしたら、もうすでに動き始めているかも知れない。
だから急がないと。
「仕方ありませんね……旦那様がいいと
困ったように眉を八の字にするエマに、しまったなって思った。
お父さん、お仕事をしているんだから、お仕事が終わるまで待つくらいの猶予はあるはずなのに。
これはあれだ、精神年齢が子供の方に引っ張られているのか、こうと決めたら視野が狭くなって、それをすることしか考えられなくなっちゃうのかも。
これから気を付けないと駄目ね。
ちょっと申し訳ない気分になりながら、エマに抱っこされたまま揺られて、お父さんの執務室らしい部屋の前までやって来た。
エマが控え目にノックする。
「旦那様、お嬢様が旦那様にお会いしたいと仰っておいでです。いかが致しましょう」
エマ、まだ十二歳なのに、敬語や言葉遣いがちゃんとしていて、すごいわ。
こういうちゃんとした子だから、公爵家のメイドになれたのかな。
「マリーが? 構わない、入ってくれ」
「はい、失礼します」
エマに連れられてお父さんの執務室に入る。
重厚な執務机に豪華な革張りの椅子。
本棚にはいっぱい本が並んでいて、さらに国旗らしい旗が二つ飾られていて、いかにも貴族の執務室って感じだ。
「マリー」
お父さんの顔が私を見てふにゃっととろける。
イケメンなのに、なんだか可愛い。
「おと~しゃ……ま」
取りあえずお父様呼びにして、お父さんの方へ手を伸ばす。
「お父様なんて、もうそんな呼び方を覚えたのか。マリーはすごいな、偉いな」
エマから私を受け取ったお父さんは、もうデレデレだ。
「でも、まだパパでいいんだよ? むしろパパって呼びなさい」
目が真剣で、ちょっと怖いんだけど。
娘にパパって呼ばれることに、何か特別な思い入れでもあるのかしら?
「ぱ~ぱ~」
「ああっ、マリー! 可愛いマリー!」
「ぐえっ!?」
そんな思い切り抱き締めたら中身が出ちゃう!
「旦那様! お嬢様が潰れてしまいます!」
「おっと!? 済まないマリー」
「……あい」
ふぅ……良かった、潰れた肉まんみたいに中身が飛び出さなくて。
「それでマリーはパパに会いに来てくれたのかな?」
「あい」
コクンと頷いて、おねだりをする。
「ぱ~ぱ~、ごほんよんで」
「ああ、いいとも! パパに読んで欲しいんだな」
「あい」
「エマ、マリーに読んであげる本を何か見繕ってきてくれ」
執務室には難しそうな本しかないもんね。
「旦那様、お仕事はよろしいのですか? 読み聞かせでしたら、あたしがやりますが」
「何を言っている。マリーはこの私に読んで欲しいと言ったんだぞ。娘より優先する仕事などあるわけがない」
キリッと凛々しい顔で……お父さん、親バカね?
エマが困ったような微笑ましそうな顔をして、本を取りに行ってくれる。
うん、よく考えれば、エマに読んで貰っても同じだった。
お父さんのこと……ゼンボルグ公爵リシャール・ジエンドのこと、そしてお母さん、ゼンボルグ公爵夫人マリアンローズ・ジエンドのことを、もっとよく知らないといけないって思ったから、また子供視野になっちゃっていたかも。
でも……。
「さあ、マリー、ここに座りなさい」
「あい♪」
お父さんのお膝に座ってお腹に寄りかかると、なんだかすごく安心する。
このお膝に座るだけでも、我が侭言った甲斐があったかも。
程なく、エマが子供向けの本を取ってきてくれて、お父さんが私の前に本を広げてくれた。
うん、文字ばっかり……。
子供向けって言っても、絵本なんてないんだろうな。
しかも、日本語だったら漢字かひらがなかで簡単か難しいか判断が付いたけど、知らない国の言葉だと文字が読めないから、簡単か難しいかも判断が付かないわ。
「じゃあマリー、読むぞ。『そのむかし、せかいは――』」
おお、お父さんの読み聞かせの声、イケボだ。
イケメンでイケボって完璧じゃない?
すらっと背が高くて、でもなよっとしてるわけじゃなくて、かといってガッシリとも違う、スマートな体型で。
短い深紅の髪が情熱的で格好良くて、美人のお母さんと本当にお似合いね。
おっといけない、お父さんのイケボに聞き惚れたり、見とれてたりしてる場合じゃなかったわ。
「『しょの、むかち……しぇかい、は……』」
お父さんが読んだだろう箇所を、遅れて読みながら指でなぞってみる。
「おや、マリーも一緒に読むかい?」
「あい!」
「マリーはいい子だな。よし、パパと一緒に読もう。じゃあ最初から」
お父さんが私の手を取って、私の指で読んでいる箇所をなぞっていく。
「『そのむかし、せかいはひとつで、そらも、うみも、だいちもなく――』」
「『しょの、むかち……しぇかい、は……ひとちゅ、で……そりゃも、うみも、だいちもなく――』」
こうして、私の破滅回避を目指す勉強の日々が始まった。
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