幸せの思考実験(後編)

 ――不意打ち(責は不意を見せた僕にあるのだけれど)なんて卑怯な真似をしやがった道井さんのおかげで、今回のバトルの立案者である僕は試合開始早々に被弾してしまった。

 しかも、またしても顔面に。

 口内に入った砂粒を吐き出していると、今度は続けざまに二発飛んできた。

「くっ――!?」

 けれど、僕とて同じ手を何度も食らうほど単純ではない。華麗なサイドステップで先頭の球を避け、続く魔弾を右手で掴むと、道井さんはその大きな目をぱちぱちと瞬かせる。

「思ったよりやるじゃん」

「熟年者の台詞だな」

「まあ、そりゃあプロですから?」

 得意げに胸を反らした道井さん。

 彼女の手が弾の補充を完了させるよりも先に、僕は身体を半回転させて駆け出す。勿論、左右の手に泥団子を掴んで、だ。敵前逃亡は戦争犯罪だとか抜かす奴がいるが、そんなのは戦時中の戯言。確実に、自分の命よりも重たいシロモノなんてものはあり得ないのである。

「逃げるなんて、水亀くんの卑怯者めー!」

「戦略的撤退の五文字を知らないのかな、道井さん! 逃走は、負けとは根本的に違うんだよ。なぜなら負けないために逃げるからだ!」

「屁理屈ばっかり!」

 近所迷惑を忘れた大声で叫び合った僕達は、二人とも物陰に隠れた。僕は滑り台の陰で、道井さんは泥団子の山の向こうに。それぞれ、首を引っ込めたり脇をしめたりして出来るだけ身体を小さくする。

 現在、僕の勝算はどう足掻いたところで二割が限界だ。

 弾薬庫(もとい泥団子の山)は彼女に占領されて、僕の手持ちは僅か二つ。全力で走って、弾幕の中をどうにか抜けられれば道井さんをタッチすることも出来るやも……と考えるが、それはあまり現実的な解決策ではない。それはなぜって、そりゃあ、ゼロ距離とかならまた話は違ってくるけど、基本的に接近すればするほど被弾率は上がるからだ。

 加えて、彼女の日ごろの鍛錬。

 夜更けに、公園で泥を投げまくるというやつだ。

 その意図があったわけではない、というのは明白であったが、結果として彼女の投擲能力の向上に一役買っているのは確かだ。

 極めつけには、それが日課だとか言っているし。

 道井さんの腕には磨きがかかっているだろう。

 もしかすると神がかっているかもしれない。

 ……それは過言か?

 まあいい。

 とにかく、今のままではどうしようもないのである。

 打開策を考えなければならない。彼女を脅威たらしめる弾薬庫の占領、または破壊とか。どちらにせよ一旦は彼女をあそこから遠ざける必要があるが。

 ふむ。

 試しに滑り台の陰から顔を半分、出してみる。

 すると、一瞬視界の端に見えた道井さんは、待ってましたと言わんばかりの満面の笑みで、右腕を勢い良く振るった。

 飛来する泥団子。

 顔を引っ込めると、ついさっきまで僕の頭があった位置で弾丸が砕け散った。

 おそるべき命中精度だ。

 これでは近付こうにも近付けない。

 万事休す、ということだろうか。

「いやいや、試合開始からまだ一分も経っていないのに、もう追い詰められてどうする。意地を見せないと、また笑われてしまうぞ」

 自分を鼓舞する。

 なにも泥の投げ合いでここまで真剣になる必要性は無いだろう、というツッコミが何処かからか聞こえてきそうな気がしたが、いやいや、今回のペナルティーの重さを甘く見てはいけない。労働力を軽く見積もってはいけない。

 なぜって。

 さっきの検証で分かったが、彼女の球、結構飛ぶのである。

 今のところは地面に落ちたりだとか遊具にぶつかって砕けたりだとか、あまり掃除に困らない形で落ち着いてくれているが。これがもし、生垣やその向こうの道路に飛んで行ったら……考えるだけで『しち面倒』の四字が浮かぶ。

 道路の脇で膝をついて片付けている時なんかに、誰か通りがかってみろ。

 見るからに不審じゃないか。

「一体どうすれば……」

 悩む。

 脳の回転数は最高値を記録していた。一秒間に数十の案が浮上し、同時に脳内でそれぞれを光速シミュレーション。最終的に、一つの解決策が確立する。

 ああ、なるほど。

 これは――少しどころの話じゃなく卑怯だ。

 はっきり言って小者。

 尊厳なんてもとから無いようなものだが、この作戦を決行したなら、僕の評価は地に落ちるどころか地中に埋まってしまうだろう。

 それでも。

 僕は、やるしかないのだが。

「道井さーん!」

「どしたの?」

「降参!」

「ほえ?」

 投降。

 言ったろう? 逃避は負けないためにするものだと。

 何も勝負事全般において、勝つことだけがゲームの最終目標ってわけじゃない。人によっては、楽しむことが一番の望みだったりもする。

 僕はそういう奴なんだ。

 だけどまあ、道井さんはたぶん前者だ。

「チキンチキン、このマグロ野郎!」

 物陰から出て行くと、僕を迎えたのは頬を膨らませた道井さんの罵倒だった。

 センスの良い罵倒だと思う。

 いや、僕は別に罵られることに生涯の幸を見出すような性的倒錯者ではない。それについてはここで断言させてもらおう。勿論、僕はご満悦、というわけじゃない。

 僕が彼女のセンスを認めた理由については……ううむ。

 ……仕方ない。彼女の悪口について、ちょっと解説をしよう。

 チキンとはつまり小心者の事。こんなのは一般常識、序の口だ。問題はこのつぎ。生物の筋肉には赤いものと白いのがある。赤い方を赤筋と言うが、マグロの筋肉はこの赤筋のみだから、ここまででマグロ野郎の説明が出来る。

 そして。

 赤筋は別名、遅筋だ。

 チキンと遅筋。

 良いセンスをしていやがる。

 ——その所為か。

(惜しいな……)

 僕は平静を装いながら、胸中で呟いた。

「もうさぁ、水亀くんにはさぁ、プライドってものはないのかな!?」

「あったら僕だって、突撃くらいしてたよ」

「お国の為にってやつかな」

「僕にはそういうの無いから。ごめんけど、降参するよ。……おっと、もし君がこの万歳ポーズを見てもなお、その右手のモノを僕の顔面に叩き付けるというのなら。それは死体撃ちと大差ない行為だと言っておくよ。僕みたいなろくでなしには、なりたくないだろ?」

「ぐぅ……」

 逃げ切った。

 道井さんの表情を見て僕は確信し――

「えいやっ!」

 ……またしても、僕は不意打ちを食らったのであった。




 ワニ。

 怪獣映画の侵略者を四足歩行から二足歩行にしただけみたいな、つまり侵略者みたいなあいつらは、川底の石を喰うらしい。

 こう、ガリガリと。

 胃袋に押し込むらしい。

 大昔の拷問のようだったが、本人たちにマイナスなイメージはないらしい。いつだったか読んだ新聞記事には、ワニは石を食べることで消化器内を清掃するとか書いてあった。

 それと同じように。

 もしかしたら僕の口の中にある砂利も、飲み込んだら胃袋や腸の汚れが取れたりするのかもしれないと思ったが、一度深呼吸して考え直してみれば、そんなことは全然ない、という常識を思い出すことができた。

 ありがとう深呼吸。

 ――余談だが、僕は昔、深呼吸のことを「ひっひっふー」のことだと思っていたが、あれはどうやら違うらしい。ラマーズ法、だったか。

 無知を晒した失敗談である。

「さて」

 ……現実逃避はここまでにしよう。

 実はこの、道井ルイとの出会い自体が現実逃避であったりするのだけど。

 それは置いといて。

「この惨状をどうするか、だな」

「んー……一緒に片付けようよ、水亀くん。私は泥団子当てられてないし、水亀くんは二回も当たってるから、本来私が手伝ってあげるなんていうのはルール違反なんだけど、そこは、まあ、ね。私の観音的な慈悲深さに感謝すると良いよ、うん」

「ありがとう、道井さん」

 遠くの空に太陽の頭頂が見え始めた頃。

 僕達は、皮肉っぽく降り注ぐ陽光を受けて、明らかになった公園の惨状に、冷や汗を垂らした。予想よりも、ずっと酷い。それに、よくよく考えてみれば、片付けなければならないのは僕達が投げた泥団子だけではないのだ。

 例えば、そう。

 女性ゆえに僕よりは一回りくらい小柄だとはいえ、きちんと十五歳の体躯である道井さんの身体を、不都合なく庇えるくらいの大きさを誇る泥のピラミッドとか。

 その一歩手前に、ちんまりとある僕の泥団子とか。

 そこら辺の未使用品も片さなければならない。

 だから道井さんは自ら『一緒に片付けよう』と素敵な提案をしてくれたわけだが。

 生憎と。

 僕には、僕だけには、もう残り時間が僅かであることが分かっていた。

 朝が……ああ、朝が来る。

 目覚めの時間が。

 枕元に、こんな時に限って忘れずにセットしてしまった目覚まし時計が鳴り出す。

 けたたましいベルの音が。

 ラグナロクの予兆みたいに。

 最終を、最後を教えるみたいに。

「ごめん、道井さん」

「ふへへっ、良いってことよー!」

 人の良さそうな笑み。

 一緒に悪いことしてやったぜ、みたいな。

 ようやく同類を見つけた、みたいな。

 充足感に満たされた表情。

 それとは対照的なのだろう。僕の顔は、醜かったに違いない。

「ふへ? どしたのさ、水亀くん。そんな顔——」

「——……ごめんよ、道井さん」

 目を開ける。

 そこにはもう、彼女、道井ルイの姿なんてのは、その断片だってありはしなかった。

 髪の毛の一本も、指先の数ミリも、皮脂の欠片も。

 それらをしつこく探して僕の黒目は東奔西走するが、それでも僕は彼女の残骸だって形跡だって、たったの一つも見つけることは叶わなかった。

 見慣れた場所。

 自室。

 純白の天井に、同色の壁紙。絨毯も白、ベッドのシーツも白、クローゼットに仕舞った服だって、ぜんぶが真っ白。調度という調度が、それ以外に関しても、完全に白。

 土汚れの一つもない。

 清潔さがかえって毒みたいな部屋。

 僕はベッドの上で、ぼんやりと言う。

「思考実験『友人との強制的な離別。その際、僕は不幸を理解できるか』……結果。この落胆というか喪失感が不幸なのであれば、僕は不幸を理解できたんだろう」

 不幸を理解できた。

 理解できてしまった。

 幸福よりも先に、不幸を。

 そんなことをして何になるのか――それは勿論、幸福を理解する足掛かりになるのだ。不幸を理解することで幸福を理解するとは、天邪鬼にも程がある、が。

「背理法」

 こっちが駄目ならあっち。

 あっちが駄目ならこっち。

「道井ルイとの出会いと別れ」

 別れが不幸なら。

 きっと、出会いは幸福だ。

 そういうお話。

 僕は思った。『幸せの青い鳥』みたく、この幸福も手元に縛り付けておけたら良いのに、と。監禁でも拘束でも捕縛でも良い。でも、そんなのは所詮無理な話だった。

 だって道井ルイに実体はない。

 あくまでも思考実験における前提の一つだ。

「……」

 緩慢な動作で上半身を起こし、窓の外を眺める。

 そこには何の変哲もない公園があった。ブランコがあって、ジャングルジムがあって。ベンチには、噛み締めるように何処かを見つめる老人が座っていた。

 変哲なんて求める方がどうかしている光景。

 無駄に長々とそれを見て、僕は溜息交じりに呟く。

「——ひとりで、片付けたのかな」

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衝動書き集め(短編集……?) 揺蕩う人形 @tayutauninngyou

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