第11夜 美佳

 深夜の児童相談所は、病棟のような寒々とした孤独があった。

 洞窟のような広いホールに、モスグリーン色のビニールソファが点々と並んでいる。まばらな蛍光灯が、ホールから続く長大な廊下の、闇の濃淡を醸し出していた。

 その古びたソファはスプリングが腰にあたって、ささくれ立った神経を苛めた。もうどのくらい待っただろうか。絹人は飽きてしまって、所在なげに足をぶらぶらと揺らせて遊んでいる。その振動でさらに硬さを増していた。

 スリッパが這い回るような音を立てて、窓口にいた保育士の女性が廊下の角から現れた。初老の、肉付きのいい身体をグレーのスェットスーツに包み、ベージュのカーディガンを肩にかけていた。青白い蛍光灯の光が、薄暗がりのなかから、そのシルエットだけをぼんやりと切り取った。

 少女の影が、その背後に現れたとき、わたしは思わず息を呑んだ。

「ママ、帰ろうよ。ここ寒い」

 絹人が場違いなほど大きな声をあげて、その声が反響した。

 その瞬間、小さな影の動きが凍りついた。彼女の視線を受けていることを感じて立ち上がったとき、反発するように身を翻した。

「あっ、玲奈ちゃん」

 保育士は後を追ったものの、足音は駆け出してゆき、みるみる遠くなった。

「ママ、玲奈ちゃん、来たの?」

「ううん、今日はちょっと駄目みたい」

「どうして、お姉ちゃんと一緒にお風呂にはいるんでしょ」

 手が離せないのが判っていて、彼を連れてきたことを悔いた。苦渋の色に染まった保育士に、言葉少なく謝意を述べて、立ち去った。


 絹人を幼稚園へ送って、児童相談所へ電話を入れた。

 もともとの小学校へ通うために、玲奈は朝一番のバスに乗って、幾つもの校区を渡っていくのだという。帰りは安全確保のために、近隣の公民館で相談所からの車を待っているのだそうだ。

「ボランティアの方達が遊んでくれていますから、安心ですよ」

 親切でかけてもらったはずの言葉の棘に、一日中なにも手につかなかった。

 公民館の場所を聞き、地下鉄で向かった。

 まだ時間が早いかもしれないと思いながら、公民館のなかに入って窓口を訪ねた。呼吸を整えながら階上の児童室へ上っていく。

 思いがけず、そこに玲奈がいた。

 ガラスで分離された向こうの部屋で、わたしを見て、何か声をあげた。

 髪をショートに整えた女性が、膝をついてわたしに背を向けている。玲奈の服を直している様子だった。膝丈のスカート、紫を織り込んだ柄もののセーター、職員には見えなかった。

 振り返ってこちらを見た顔は、すこし緊張していた。それでなくとも水が結晶したような、清冽さとあやうさをもつ綺麗な顔立ちをしていた。そして大人びた印象のある、細めの唇が動くのを見逃さなかった。

 あなたのママなの?と女性が聞いていた。

 ちがう、と玲奈は答えたようだ。

 問いに応えた瞳に、浮かんでいるのはわたしへの拒絶だった。

 女性は玲奈を隣室へ送り出し、静かな眼差しで廊下へ現れた。

 窓口で貰った受付票を手渡しながら、名乗りあった。やはりボランティアの方だった。

 彼女の名前をよく聞き取ることができずにいたのを察して、ころもに花と書いて、と彼女は言い添えた。よくあることらしい、慣れた口調だった。

「・・・今は会いたくないって、玲奈ちゃんいうんです」

「そうですか。解る気がします。いろいろとあって、迎えに来ることができなくて。拗ねてしまっているんですね」

「どうされます?」

「まず顔だけでも見れたから、ちょっぴり安心しました」

 ふっと溜め息を聴いた。何かを諦めたかのような哀しい顔を、衣花はしていた。わたしはお店の名刺を渡して、また来てみますと告げてその場を去った。


 数日は迎えにいく気力がわかなかった。

 また拒絶を見ることが怖かった。協議離婚から4年の月日が流れている。離婚の頃には絹人を妊娠していた。わたしの非も隠すことなく話し合い、家庭を分け合ったあと玲奈と会ったことは無かった。結局のところ夫とは、お互いに夫婦ではない異性を支えに求めていたのだ。

「あなたも事情はご存知なんでしょう?」

 衣花に訊きたいことがあって、公民館の側のカフェで待ち合わせた。

「新聞で読みました。大変でしたね」

「すぐにわたしも迎えてあげればよかったのだけど・・・記者とかテレビ局とか、離婚して、しばらくしたあとだったのにうるさくて」

 あと数日と迫って、賑やかなクリスマスソングを流しながら、デリバリーバンが駆け抜けていく。ひとつまみ音量を上げた様子だ。

 エスプレッソはすっかり冷めてしまっていた。

「もう、クリスマスね・・・ねえ、あの子はなにか欲しいもの、あなたには言わなかった? とてもよくしていただいているし。物で誘う気はないんだけど、それを聞きたかったの」

「スマホが欲しいって、話してくれました」

 そうだったわね。

 あのひとがしていた約束を、忘れてはいないのだ。

「もういいでしょうか?」

 ああ、すみません、と伝票を持って続いた。彼女の眸に蜘蛛の糸のような気配を感じた。その時、わたしはなぜ彼女を誘ったかを確信した。

 実は、あなたは把握しているのね。

玲奈の語る言葉を越えて知っていて、わたしの言葉から真実の断片を捜していたのね。まるで欲しいピースを探して、ジグソーパズルを組むときのように。

「わたしね・・・子供ができない身体なんです」

 冬枯れの並木道を歩きながら、ふいに衣花が言った。穏やかな口調ではあったけれど、断ち切るように告げた。わたしにはない芯の強さだと思った。

「あの子の、里親を申請しようと思っています」

 じゃあライヴァルだ。

 意外なことに、わたしは神経を逆撫でされることはなかったし、そう考えることで少し救われた気もした。             



<了>


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FRESH +BLOOD 百舌 @mozu75ts

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