第10夜 衣花
報道が始まって、世間が私の時間に追いついた。
新聞紙面を丹念に読み、さらにネットで他紙の内容も確認した。
この日が来るのを私は予感していた。あの男が拘束される前に、刑事が私を訪ねてきたからだ。刑事の訪問が、疑念を抱いているのは、私の独りよがりではないと教えてくれた。
私は問われるままには、正確に答えた。
坂口小夜は、高校生のとき後輩だったが、顔見知り程度だったことから始めた。
友人関係となったのは、社会人となってからだ。私が勤務先で電話をとって名乗ったら、彼女のほうが先に気づいた。用件のあとはすぐに食事の約束を取り付けられてしまった。
取引先の会社で営業をこなしていた彼女は、努力家でもあったけれども感情に起伏が多くて、不安定になりがちだった。お酒が入ったときは、度を過ごすこともままあって、困惑するときもあった。
思えば、支えを常に欲していた女性だった、と話しながら思った。
だから私はある精神科医を紹介した。
「その頃の、彼女の、お付き合いのご相談はありましたか?」
「ええ。あの・・・家庭のある方でした」
「この中でどの方かお判りでしょうか?」
幾人かの顔写真の中から、その顔を選び出すことなんてどうということもなかった。先日はバァで痛罵した男がその中にいた。
「私とは高校の同窓です。あの・・・・なにかあったんでしょうか?」
「ええ。額面どおりに受け取れない矛盾点を見つけたのです」
「自殺とはお考えではない、ということですか?」
刑事は鈍い双眸に光を溜めた。
「なにか他にお心当たりでも」
「・・・最後に会った日から暫らくして、彼女は堕胎しました。このひとの子だときいています」
「判りました」
口調に変化はない。視線を逸らしつつも、舌先で厚い唇をなめた。男性が胸元に置いた視線を恥じたときの仕草によく似ていた。
またなにか思い出すことがございましたら、そう告げて、彼は席を辞した。
懐かしい夜の町を歩けるようになった。
自宅に帰る前にボランティアを始めたからだ。
福祉児童を支援する、ボランティア団体に加盟したのだ。事務の仕事をパート勤務に切り替えてもらったが、それでも足りずに帰宅はかえって遅くなった。
休日は児童福祉施設を訪問したり、手造りの玩具やバザーで売るような商品を集めたりした。火曜日と木曜日の午後は公民館で、母子家庭などの一時預かりの児童に絵本を読んで聞かせたり、歌を歌ったり、寝かせつけたりもした。
夫はそんな私の行動に、ただ冷淡で答えた。しかし溜まっていく埃に不満を言わないだけ、協力的だと思い込むことにした。里親の加盟申請をしたかったが、そこまでの相談は夫に退けられそうで言いあぐねていた。
私の日常に、秒針のようなせわしい時間が生まれた。
子供たちは、木枯らしの中でも肌を汗臭くして、屈託なくいつでも全力でぶつかってくる。その姿は眩しかった。別れ際には、寂しさを知らないような笑顔を弾けさせた。
添い寝をしていると、懐へと潜り込んでくる。胸に包んでいると、小さな身体が心音を刻んでいる。全身が心臓でできているかのように、そのむきだしの鼓動は伝わってきた。
ある日、施設から、新しく女の子が連れられてきた。
白くて細い指をしていた。幼顔のうえに仮面を被っている子だと思った。
子供たちから少し離れた場所にうずくまり、ひとりでブロックを組み上げては無残に壊した。完全にばらばらにしないで、その残った部分をじっと見ていることがあった。私はその遊びに割って入ることにした。なにつくろうか、独り言のように訊くと、少女は私の手を押さえた。
その指が震えていた。
私のひとさし指を、手のひらいっぱいで握り締めている。私を見上げた眼に、昏い海が見えた。溢れていまいそうな深さをもった海だ。そんな海を私はどこかで見た気がした。
新しい情報を知った。
深夜のニュースだ。小夜の顔よりも、「彼」の近況を伝えるようになっていた。現場検証へ同行する姿は、私に誘いをかけた饒舌さが失われていた。打たれている腰紐にモザイクがかかっている。そこに隠されているものを知らないひとは稀だろう。かえって弔いの気持ちを無にする、冒涜の映像だと思った。
被害者が妊娠していたことが判りました。既に遺体が火葬されていたため、これまで確認がとることができませんでした。と女性アナウンサーがよそ行きの沈痛そうな声音で告げた。
私は唇を噛んだ。
鉄の鈍い味がひろがった。
カルテによると妊娠8週目とのことです。
どうしてここまで彼女は辱められないといけないのか。失われた小さな命について掘り下げて報道する意味が、今あるのか。私は、彼女が堕胎を望んだことを、姑息な倫理感で意見するつもりはない。しかしその存在があの男の動機であるのならば、沈黙する自分は許せない。
その時間にも関わらず、私は電話をとり、教えられたナンバーを叩いた。
「思い出したことがあります。最後に受けた電話で聞いたことです」
そしていい難いことなんですが、と前置きをいれて、小夜が、彼との情事のときに撮られた写真を、ネット上に流されるような嫌がらせを受けていたことを話した。
携帯に受けた最後の電話だった。
掲示板を荒らされたのよ。
いま、どこにいるの。
海よ。
風の強い深夜だった。正気とは思えなかった。
あたしが死にに来てる、なんて思ってる? そうたずねて、彼女は乾いた笑い声を撒き散らした。次の瞬間、いきなり切れた。
私は不安を抑え切れなかったが、どうすることもできなかった。もう携帯は電源を切られていた。頭を軽くふって、リビングで両腕を抱いて夜気に身をすくめた。
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