第9夜 美佳
その山間のまちは、乳白色の湯が有名な湯治場だった。
予約をいれたのはわたしだったが、演出を加えたのは佐伯だった。
秋晴れの川を、年の離れた男同士がカヌーを操っている。岩礁で急流が砕けている川岸の県道を、彼のミニヴァンで並走する。あの子は目を見開いて川へ挑んでいる。輝く瞳が目に浮かぶようだ。その頼りない手つきにこちらのステアリングも覚束ない。木の葉が翻弄されているように見えてはらはらしているのはわたしばかりだ。
年長の男の子ときたら強引なものだ。こんな冒険を織り込むなんて。
魚が跳ねたかのように、オールの切っ先がぎらりと陽を反射する。鋭利な白刃のようだ。熟連の手捌きでリズミカルに水面を斬りとってゆく。
これはこれで埋め合わせだよ、と彼のオレンジのベストに呟いてみる。
露天では少し秋風が冷たかったが、はらはらと散る紅葉の浮いた湯はステキだと思った。
「あの子は」
湯のなかでわたしを引き寄せて、佐伯は耳元で言った。
「寝てしまったわ。一日はしゃいで消耗し尽くしたみたい」
露天は貸切りの札を下げて、内鍵をかけてあった。いたずらに彼は乳房を揉んでいた。乳首をつまむ甘い感触で、躯がほどけていくような気がした。
「あの子ったら最近、わたしとお風呂に入りたがらないのよ」
「ぼくと入りたいのさ、こんな日は特にね」
特別の日かぁ、とわたしは小さく嘆息した。
「もうすぐ頼り甲斐のある子になるだろうね。腕の力もなかなかになってた」
「いい子をありがとう」
単純なものね。あの子のことを佐伯なりに確認したかったのだと判った。
「不自然だからね、ひとが独りで生きていくって思いつめるのは。護らなければいけない存在だって、自分の支えになる。いずれ逆転していくものさ。女のずるさを教えてやれよ」
「お言葉ですこと」
わたしも絹人も籍を入れてもらおうとは思ってない。むしろ彼が絹人を認知しようとしてた。もちろん微妙な糸の上を歩いていることだとは知っていた。嘘の必要な立場の女としては、全てを委ねるのは不愉快なのだ。
しかも彼の演じている包容力が、実は嘘の裏側であることをわかっている。あらわとなった心の闇の醜さに、眼を背けて歩いているのだ。
「久しぶりにうたってくれ」
「なにがいい」
「今の気分にあうやつ」
月影がぽっかりと浮かんだ水面を、山風が渡っていく。森の木々がざあっと一斉に唸った。それを合図みたいに、湯のなかで身じろぎをして彼から離れた。
その動きで、水面の月が、波紋のうえで乱れていた。
明け方は身を切るような寒さだった。
浴衣がけに綿の入った半纏を羽織り、朝霧の帳のなかを歩いた。
半纏の袂のなかで白木の鍵札をつけたキーがかちかちと音をたてた。
独りで眼が冴えてしまったからだ。一年にそうそうないような早い目覚めだ。身体を温めるには内湯でもよかったが、昨夜とは違う露天も試してみたい好奇心が勝った。素足に下駄がけで身をすくませるように歩いた。
「わたし、もう浴びてきたのよ」
「早いね。珍しい」
「せっかくだからね、草庵の湯ってとこ入ってきちゃった。まだ絹人も寝ているし、すましてきたら」
「ああ」
子供の寝息をききながら、わたしは部屋に届けられた新聞をめくった。普段はとっていない。インクの懐かしい匂いがした。
その記事に眼を奪われた。
クニに戻る前に、最後にきみに逢いにきた
埋もれていた言葉が顔を出した。
三面記事に相応しい事件に、親しんでいた名があがっていた。
容疑者として任意同行を受け、容疑が固まり次第に逮捕とある。殺人の被害者として小さくモノクロプリントに載せられている顔に見覚えはない。知人であってほしくない。いつかのネット上の記事。ノイローゼで自殺していたはずの女性だった。
わたしははっと絹人の顔をみた。
こんな記事が、報道が、彼の心をどのように痛めつけるだろう。
わたしのもとへも局や記者という言葉が免罪符でもあるかのように、無遠慮に、横柄に押しかけるのではないか。わたしたちの、この静かな山麓のような生活が、よそ者の土足で荒らされるのではないか。
そしてもっとも残忍なやり方で、もうひとつの幼い魂が傷つけられる。
れな玲奈はいまどこにいるのだろう。
彼の実家なのだろうか。
スマホを探した。
着信履歴の数をみて立ち尽くした。
土足の痕跡がもうすでに来ている。
佐伯を思った。
玲奈を思った。
幼い涙顔しか浮かんでこない。大きな手のひらが肩に置かれるまで、その涙顔が自分のものだと気づかなかった。
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