第8夜 衣花

 誰かと比べている手つきだ。

 夫婦の営みの間、私はそれで真剣になることがどうしてもできなかった。

 夫が乳房を愛撫するときに、指先がなにかを計るように動いている。私の官能を誘うことを忘れていることに気づいてしまう。

 剃り残したひげが這い回るのがとても痛かった。なんだか毛足の短い小動物がもぐり込んでいるような気がする。

 うっすらと眼をあけて、下から彼の顔を見つめていると、眼をつぶることがよくある。意識を集中しているのがよくわかる。閉じた瞳の裏に何を見ているのか、それを知ることが恐ろしい。

 何年と続いた営みのメニューは変わることがない。夫が精を放ったあとをペーパーで拭い、シャワーに立った。肌はまだ冷めていて、一度も燃え上がることがなかった。声はあげる努力をしたけれども、彼ならばそれが演技だと気づいている、と確信している。


 翌朝になって私はトーストとハムエッグの朝食をつくる。

 夫は手早く朝食をすませると、そのまま出かけてしまう。無趣味な彼は、その足でパチンコに出かけて小銭の勝ち負けに一喜一憂するのだ。

 私は身支度をして、クルマのキーをとった。

 英国のちっぽけな輸入車で、独身の頃から使っている私だけの財産だ。ただ今日はドライヴに出かけるのではなかった。友人の法事にでかけるのだ。気の重い外出だった。

 最後に会ったのは秋雨の時期だった。辛い告白が今も心に重い。その日の彼女の言葉と、現実を結びがちな自分を諫めた。

「自殺だったんですって」

 会葬場で、遺族の耳の届かない席では、口さがないひそひそ話がやむことがない。私はその声に怒りを震わせた。棺の姿は見ることができずに、焼香し足早に立ち去ろうとした。

「衣花さんじゃないですか?」

 下の名前で呼ぶ声に振りかえると、いつか見た顔が、心持ち神妙そうな顔で会釈した。

「やっぱりそうだ。覚えてません? サッカー部の……」

 もちろん覚えていた。卒業式の日、私が第二ボタンを貰いにいった少年が、口髭をたくわえて目もとに小じわを刻んでいた。

「懐かしいわね」

「坂口さんは本当に残念でした」

 そう、彼女は高校の後輩だった。だけど私は知っている。この男が葬儀に参列すること自体が驚きだった。その驚きを男はすこし読み違えたらしく、誘い文句を投げた。

「ちょっと歩きませんか。久しぶりだし」

 まだ夏の気配の残る道を並んで歩いた。

 足元を、お揃いのユニフォームをきた少年たちが走り抜ける。

どこか危なげで、はらはらするけれども、その躍動感はまぶしく輝いて見えた。そう。今ふたりで歩いているこの男とも、そんな光景をいつか見た気がする。

「キレイなひとは変わりませんね、衣花さんは美術部にいて、ぼくらは憧れてました」

「それがこんなに年齢をとってしまって、がっかりしたでしょ」

 男は否定するそうな仕草から、並木通りに埋もれるように目立たない小さなカフェを指差した。お茶を断る理由を探す間なんて与えてはくれない。年下の友人が彼に溺れていったのも判る気がする。

 彼は、私を女として扱ってくれている。そんな時間がこうまで心地よいとは、これまで思ったこともなかった。

「自動巻きの時計みたいです」

 はからずもお茶が食事となり、二軒目のバァで、突然、彼がこう言った。私が当惑すると彼はすかさずこう続けた。

「自動巻きの時計は仕舞っておくと止まってしまいますね。だけど一度揺さぶると、また時を刻み始める。あなたに再び逢えたことの、正直な印象です」

「お上手ね。何人も泣かせたでしょう」

「そんな風に見えますか」

「ええ。アブない匂いって、久々にかいだわ。男のひとの匂いって、そうだったんだ」

 席を立った。驚いた彼に私はカクテルを浴びせた。力いっぱいに引っぱたいた。

「最後の電話を受けたのよ。みんな聞いたわ。彼女の時間は永遠に止まってしまった。なのにあなたの時計は動いているのね」

 バァを出て、大きく息をして呼吸を整えた。

 今夜の私はいい女なのかな。

 血の匂いがする。

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