第7夜 小夜

 信号の赤が涙で淡く点っていた。

 傘のなかで身を小さくして、そのまま立ちつくしていた。

 雑踏のなかを歩いていると、孤独感が深まってくる。宙で絡み合う声のなかに、あたしの周りだけが真空になっているような、取り残された感じがつきまとっている。

 雨は診断を受けている間に降りだして、地下鉄へ向かう間に勢いをました。その交差点を渡ればもう駅なのに、いくつもの信号をそのままやり過ごした。


 婦人科の先生は、女医だった。そういう病院を選択したからだ。

 診察台を見ると、足が震えた。

いたって事務的に、看護婦さんが触診の準備をした。そのてきぱきとした動きが、ある意味で救いだった。彼女たちには日常で、あたしにとっては非日常なことが始まるのだ。

 目隠しのカーテンの向こうに先生がうずくまり、はじめは指が、次に異物感のあるものが挿入された。ぐっ、と息がつまるような痛さ。いいえ、痛いというよりも、なにか冷たくて鋭いものが容赦なくかきまぜている。そんな気がした。くぐもった声がもれるのを、必死にこらえた。これくらいのことで、泣くもんか。もっと辛いことをわたしは望まなくてはならないのだ。

 触診のあと、尋問のような問診がはじまった。心が裸にされるような、想い出が無理やりに犯されているような遠慮のない質問の数々が続く。

 生理がなくなったのに気づいたのはいつ頃ですか。

 身体のむくみとか、だるいとかいうことはありませんか。

 妊娠したと思われるのはいつ頃のことかわかりますか。

 それから、父親になる方のお名前と生年月日がわかりますか。

 彼のことならなんでも知っていた。血液型も、星座も、干支も、四柱推命も、自宅の電話も、携帯のアドレスも、脇腹にある黒子も、キャッシュカードの暗証番号も、カードで支払うときのローマ字でするサインも、そっくりに真似て書くことができた。

 そしてあたしが壊した彼の家庭も。


「大丈夫? 近くだったらお昼一緒にしようか。それまで静かなとこで、お茶しててね」

 突然の電話に衣花は戸惑ったようだった。それでもあたしの声の調子を察したのか、心配そうな声が続いた。彼女のマンションがこの駅の近くだったことを思い出したのだ。誰かに声をかけてもらいたい。誰かに胸の中を吐き出してしまいたい。でなければこのまま独りで帰れそうもなかった。

「ごめんなさい。とても眠い時期なんです」

 事情を説明して息を呑んだ友人の前で、欠伸を噛み殺した。

 約束したカフェで、ふたりが注文したサンドウィッチは手をつけられることもなく、ただ冷たくなっていく。その情景をぼんやりと見ながら、彼女に悪いなと思った。

「どうするの。これから」

「産むわけにはいかないの。あたしのためにも」

 いいながら自分を罵った。目前で蒼い顔をして固まっている女性は、子宮摘出手術を受けているのだ。そんな配慮も欠いた自分のことが信じられなかった。

「彼は・・・いまはひとりなんでしょう?」

「そうじゃないんです」

あたしは言葉を切った。彼女に告げておくべきかを迷った。しかしもう半分は明かしていることにも気づいてしまった。

「前の奥さんとの間の子供がいるの、玲奈っていう女の子」

 彼女は薄いヴェールをかけているみたいに、無表情に見えた。

「あたしは・・・嫌なんです。そんなの。その娘が大きくなったら母親に似るんですよ」

 そしてあたしを憎むだろう。あの女の生んだ娘だ。綺麗になるにきまってる。あたしが敵わないくらいに。そしてそのときにはあたしの唯一の強みだった若さもない。

「そうね。彼にはなんて言うの」

「そのまま話そうと思います。費用は負担するって言うと思うし。ただこれで終わりなんだな、って、今日思いました」

 あたしの考えを否定して欲しくはなかった。ただ支えて欲しかった。この気持ちを認めてもらえば勇気が生まれる。それを確認するための作業に思えた。


 次に逢ったのは、その日の夜遅くだった。

 玲奈はまた託児所に預けてきた、と呟くように言って、助手席に回って閉めてくれた。それが妊婦に対する気づかいに見えて鼻についた。

 彼は言葉少なにクルマを湾岸線に走らせて、貨物船のつく埠頭でエンジンを切った。積荷を英語でペイントされたコンテナが、レンガ色に濡れて並んでいる。迷路のように囲まれた一角だった。遠くの方で水銀灯が夜気を青白く染めていた。

「どうだった」

 低い声に怯えが混じっていた。初めて男という生き物が受け身になる瞬間だと思った。

「やっぱり、できてた。市販の試験薬も正確ね」

「そうか」

 あたしはしばらく黙っていた。クルマのなかの空気はまるで鉛のように重たくなった。

「だからよく考えてって、何度もお願いしたじゃない。避妊のことはあなたの責任じゃないの。こんな日がきたらどうしようって、思わなかったの」

 声が尖っている。こんなことを言うつもりではなかった。そのために昼間吐き出したつもりだったのに、その無責任な不甲斐なさが悔しくてたまらなくなった。

 彼はわたしを引き寄せて、いきなり唇を求めた。キスがタバコの味がした。冷たい手が胸の中に差し込まれようとしていた。わたしは拒否するのも面倒になって、シートに埋もれたまま、後ろに倒されていった。

 彼は誰のために泣いているのだろう。

 濡れているあたしの頬を触って、ふと思った。

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