第6夜 美佳
ステージが呼んでいる。
ライヴハウス全部の熱気が楽屋に伝わってくる日は、そんな感触がひしひしと迫ってきたものだった。そんな晩は念入りにメイクをいれて、集中力を高めた。覚悟がきまれば、驚くほど声が通るものだと知っていたからだ。
腰まで肌をさらすようなドレスだって平気だった。
ロングの黒髪が細い肩を隠してくれたからだ。
それも最初のうちで、熱狂の嵐の中で、次第に振り乱していく自分のこともよくわかってる。それがウリだとも思っていたからだ。
ライヴが引けた宵は、よく打ち上げをした。
藍色の空が白々と、青みをさして明るくなっていくまで、よく呑んでいた。若かったし、酒量も今よりはあったのだろう。でも男の肩になんかすがって帰ったことはない。プライドがそれを許さなかった。
歌って生活していくことを夢見ていたけれど、現実には難しかった。ある意味では、自分の女を捨ててかからないと上まで昇れない世界だった。
だから今の生活がある。
諦めたのではなくて、辞めたのだとアルバムを一緒にめくる男の子がいる。
この子を見ていると、女は魂を宿すようにできていて、魂に人格を刷りこむように運命づけられているのだな、と思う。
無垢なカンバスにいまわたしは向かっている。そこにどんな絵が重ねられていくのかは、まだわたしの絵筆による。それが寒い心象風景となるのか、色彩も荒々しい人物画となるのか、あるいは墨跡豊かな一文字が刻まれるのかもしれない。
わたしが支えているその絵筆を、いずれこの子自身が握る日がくる。
そのときがきたとき、わたしはまだ女でいることができるだろうか。
「スマホが鳴ってるよ」
一人前の指摘に、微笑みながら電話をとる。
「久しぶり。絹人の誕生日が近いから、今年はなにをしてあげるのかと思って」
「ありがとう。今年はふたりで旅行に出るつもりだったの。一泊しかできないけど。あなたも来れそう?」
わたしの言葉には含みがある。あなたの家庭に、この小旅行は支障がないの? その疑問を糖衣でくるむように話してる。関係を続けるために意識している、お互いの不文律みたいなものだった。
彼は軽く鼻を鳴らした。悪戯を思いついた少年のような、可愛い音をたてた。
思案する素振りもなくするすると言葉が編み出されていく。慣れた口調だった。
「このところイベントを控えて残業続きでね。休日なんてあったもんじゃない。管理職の辛いところさ、っていうところで、どうかな?」
「ウソツキ」
「方便だといってくれ。都合のいい男なんだろ、きみにとってはね」
彼も合流する肚のようだ。
不思議な距離感を保つ男だった。
鏡の中へわたしを押し入れれば、反対側から押し出されてくるのは彼のような気がする。
わたしが歌う後ろでサックスを吹いていた。ヴォーカルとの掛け合いで、お互いの呼吸というものがあってた。みんなの力量を把握していて、練習の間合いを見きりながら上手に采配していた。
「佐伯パパもこれそうよ」
「ホント。また泳いでいい?」
「泳ぐには……もう寒いわよ」
わたしの返事に小さな口を尖らせた。勝ち誇ったようにこう言ったのだ。
「知ってるよ。温泉なら泳いでもいい?」
「ええ。いいわ」
わたしの予想に反して、この子は昨夏に海にいったことを覚えている。このカンバスに佐伯の深い足跡が刻まれていることにすこし嫉妬を覚えた。ふたりが同性であることに、そこに埋められない溝が喪失感とともにあることに。
パソコンを立上げて検索エンジンを使う。
とりとめのない情報が溢れている。
仮面夫婦だと噂されていた俳優とボーカリストが離婚していたり、OLがノイローゼで自殺していたり、男女の狭間の軋みが石ころのように並んでいる。そこに横たわるのはきっと青黒い天の川に違いない。
そうだ。
川のせせらぎが聞きたいな。
清流が軽いリズムを刻んでいる夜更け、少し肌寒いくらいの寝床はきっと素敵だろう。
温もりを感じあうだけでいい。手を伸ばせばそこに届く位置に、一夜だけ佐伯の存在があればわたしは満足する。
距離がこんな気持ちが芽生えさせるとしたら、あるいは織姫は幸福だったかもしれない。
贅沢なものね。
ライブで歌っていた曲をつい口ずさんでいることを知って、自分を恥じた。
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