第5夜 衣花
虫の音が濃くなった。
空を燃えるような朱に染めていた、夏の陽射しがその勢いをひそめ、藍色の闇が薄絹を重ねていくように深くなる。
事務の仕事を続けている私は、黄昏の停留所から家路をいそぐ間に、そんな季節の変わり目を体感することができる。
それは哀しいことでもあった。
夏の魔法が一日おきに醒めていくにつれ、酔いにも似たあやうい思いも、浮ついて落ち着かない気分も、次の日には笑ってしまいたくなる。あれはただの淋しさをまぎらわすための魔法だったんだ、そう気づいてしまう自分にうとましささえ感じてしまう。
それでも私は虫の音を聞きながら、夜の町を歩くのが好きだ。湿った匂いがこもる町を歩いていると、体臭のない吐息につつまれているような気がする。
自分自身にさえ嘘をついて、走り去る夏を惜しむのが好きだ。
昔、夏は恋をしていた。
いまでは考えられないほど恋をした。
いつかの夏に精一杯の背伸びをしたことがあった。
それは十年ほど前で、私がまだ高校に通っていた頃だった。相手は大学で教授をしていた男で、知性的な物腰にひかれたのだ。額が淋しくなっていたが、笑顔に濁りはなかった。
その夏はどうしても欲しいワンピースがあって、声を嗄らしながらかき氷を売っていた。そのひとは小さな男の子をつれてきて、かき氷をみっつ買って、ひとつを私にくれた。
それが最初のプレゼントで、小旅行のような形のないものから、趣味のいいアンティークのブローチ、ときにはびっくりするほど高価なものまで贈ってくれることさえあった。
けれども彼は身体を求めることがなかった。
それが私には不思議でたまらなかった。
年齢がわたしの父親に近いからだろうか、それとも単に臆病なだけなのだろうか。
しかしときには、それはもう鮮やかな手並みで唇を奪われた。
ホテルのボーイが、カーポートに回してきたクルマの助手席。そこに座った瞬間、彼の二本の指が私のあごを挟み、柔らかな弾力がかぶさってくる。ボーイの一瞥にもかまわない。そんなキスだけで痺れるときがある。
「たまにはレディらしくエスコートするからね」
高校を卒業して短大に通いながらも、この関係は進展がなかった。
その頃、幾度となく同世代の男たちと寝ても、こころの充足を与えては貰えなかった。
女として結ばれることを望む自分がごく自然なことにも思えるし、自分の父親には、到底望まない欲望を感じてしまう自分が恥ずかしくもあった。
いま振り返れば、いい男性に磨かれたことになる。
ロックを解除して、玄関に立つ。
センサーが感応して蒼白い光を浴びせた。ただいま、と人の気配のないわが家へ声をかけた。ふたりの名義で買った、新築の匂いが残るマンションは冷え冷えとしていた。
郵便物を整理して、洗濯物を取り込んで、ヒーターをかけた。朝の食器が無造作にキッチンのシンクに重ねられていた。鼻を鳴らすこともなく、淡々と食器洗浄器にかける。モーター音を聞きながら、メニューを考える。
結婚という間柄は、お互いを分担して、制約することで成立している。
朝食の用意と洗濯をして、会社にでる。夫が身支度を始めるのはその時間だ。先に帰ってから夕食の準備をして、夜半に向かい合って食べる。夫はサラリーの分だけ残業が多く、ローン負担も重い。
無声映画のような食卓には、字幕すらかからない団欒がある。
バスタイムには時差があって、ベッドには広大な砂漠がある。
誰でもない私がつかんだ日常だった。
この繰り返しで得るものが、こんなちっぽけな空間だなんて、あの夏の私が想像できただろうか?
バスルームは特注品で、壁の一部がガラスとなっている。
発注したときの自分を羨やましく思う気持ちと、恨みたくなる気持ちが混じっている。化粧室の明かりを点け忘れると、姿見となって、隠しようのない全裸の私がそこに映ってしまう。そんなときは熱湯を出して、はやくガラス面が曇るようにしている。
私は妊娠のできない身体だった。
少し肉のついてきた下腹部に縫合の跡が走っている。
微かなその綻びから失ったものは女そのものかもしれない。薄いピンク色をしたそれは何かの幼虫が這っているようで、いつまでも慣れるものではなかった。
眠りに落ちる前に、夫の背中がつい目に入る。
いつかは自然にそこにしがみついていけた。日向の匂いのする場所だった気がする。それがナイトランプの淡い光を黒く切り裂いて、まるで壁のように高くそびえている。
淋しい。
何も言わずにただ抱きとめてもらいたいと思う。
それが自由を奪われることでも構わないと思う。
ただ体温と肉体の重み、それを感じさえすれば、いくら言葉を重ねても埋まらない心の透き間が満たされていくような気がする。
今日もいつものようにバスに乗る。
茜色の空に、一条の輝きがすっと泳いでいった。
自由に風に乗って、陽光を追いかけるように流れていった。
終わっちゃったよ、赤とんぼ。
私を超えて翔んでゆけ。
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