第4夜 小夜

 網膜に赤い爆発をみた。

 そして具体的な感覚での浮遊感があたしを包む。

 なにかすごい圧力で、全身が噴き上がっていく感覚がある。それも印象としては水中よりも、空中を飛んでいるようなものが多い。というのは、距離感の問題なのだろう。水中であの距離を往き来するには、深いところへ潜るには水圧という負荷がかかる。その負荷を感じないから、常識的に空中だと思うのだろう。

 そこはいつも温かく、光があふれている世界。

 不思議とあたしの場合は、音のない世界だった。

 そしてネットのなかのような冷たさもない。

 羊水に浮いていた頃の記憶が、脳のどこかに残っていてそれが甦るのだろうか。検索サイトでその投薬治療の体験談を検索してみると、大群衆の喧騒のなかを素裸で歩いている幻を見ていたひともいた。


 きっかけは小さな恋愛だった。

それが不誠実な恋愛と知らされたときには、すでに肉体をかさねていた。

 決定的だったのは、彼が協議離婚したことだ。光明が見えたかに見えて、あたしの気持ちは逆に冷めてしまった。

 小さな娘の手を引いて逢いにくる。その神経を疑った。

 そして関係を絶つことができない自分の神経も。

 不愉快に感じながらあたしは彼の家庭を壊す助力を果たした。年齢を重ねるにつれて、その事実は重くのしかかり、無気力というか喪失感というか、抜け殻のようになった自分、という状態が続いた。

 見かねた友人から精神科医の医師を紹介され、最初は睡眠薬を、そして次にはトランキライザーと、自分の平静を保つための薬が処方された。

「もっと自分を解放することが必要ですね」

 初老の医師が次に処方してくれたのが、今の薬だった。そしてあたしはその薬の虜となった。恐ろしくて薬の名前を問いただしたことはない。投薬治療が始まって、最初に病院のベッドで目覚めたとき、着衣の違和感がひどく気になった。特に下着がずれているような感触に気づいたとき、ぞっと全身が総毛だった。

 それでもあの浮遊感の自由さに、ここへ足を運ぶのだ。

 あるいは全ては誤解で、投薬治療中のあたしは無意識に暴れているのかもしれなかった。

 冷たい風がスカートのなかを駆け回る季節になった。エアコンで暖められた診療室は、覚醒したあとではさらに埃っぽかった。医師はぐっと引き締めた顔をして、それでも平静を装うような口調でわたしに声をかけた。

「もう大丈夫。お祝いに一杯お付き合い願いますか」

 誘われるままにバーに入った。背の高いスツールに上り、宙でヒールの足を絡ませた。

「この二年余り、カウンセリングを続けてきて、もうあたしのお話なんて飽きてしまわれたでしょう」

「ひとにはいろんな影があって、それは光の裏返しなんです。こうして並んでいると影の濃さも長さも昼間のあなたとは違う。いつかきっとお分かりになる」

「あたしは完治したのでしょうか。まだまだ不安なんです」

「坂口さんの薬をね、だんだん薄くしていったんです。今日のはただの睡眠導入剤です。それも軽い部類の。あなたはもう頼る必要はないのです」

「今日限りということですか」

「私の立場としては」

 彼はそのまま紳士的に別れ、あたしをタクシーへ座らせてチケットを運転手に渡した。道に放り出されてしまった子供のような不安が、かぎ爪のような鋭さであたしの心を貫いた。

 だれかに抱いてもらいたい。

 黒い炎が点った。

 衝動を堪えるために、スプリングの硬い不愉快なシートに埋もれながら、両腕を掻き抱いた。

 もう一度、診療室へ引き返そうかと思った。しかし医師にその気があるのならば、今ここで震えているはずがない。でもなぜあたしを誘ったのか。あたしはあの医師に、身体を開けるのか?

 ぶすぶすと炎がのたうって醜い焦げを残していく。できるわ。きっとできる。ひとつの処置のひとつだと思えばいい。でもその時の医師の顔を思い浮かべることがどうしてもできない。だいいちこの時間は帰宅しているはずだ。帰宅する場所に、独りでいるとは限らない。あたしは彼のことなんて何も知らないじゃない。

 甘い陶酔が甦る。

 あたしのうえで蠢く重さ。否定したい顔が呼吸を乱している。慣れ親しんだ愛撫の残り火が、ふっと重力を奪う。薬による浮遊感にも似た感触・・・

「・・・お寒いですか?」

 運転席から覗うような声がした。

「・・・このところ急に冷えましたからねえ」

 女の匂いを気取られたかもしれない。ドライバーの脂ぎった声質に卑しいものを感じる。

「構いません。ありがとうございます」

 ハンドバックのなかでスマホを握り締めた。電源は入っていない。悪戯にボタンを押してみる。彼のアドレスはとっくに消去していた。指がナンバーを覚えているようなのに、どうしても頭では自信のある数字を思い出せなかった。

 だからタクシーを降りてスマホの電源を入れ、先々月の着信履歴から見覚えのある番号でリダイヤルした。

最も辛い過去は、苦い現在とつながっていた。

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