第3夜 美佳
電話が鳴った。
バッグからスマホを取り出して、液晶に写る女友達のプロフ画像をすこし睨んでから、わたしは着信を受けた。普段なら電話の鳴ることのない時間帯、電源を切っておかなかったことをわたしは悔いていた。
彼女は、かなり飲んでいた。
舌の回転も怪しく、さんざんにつきあいはじめたばかりの彼氏の話題を一方的にまくしあげた。わたしの気持ちさえよそに、こんなときの彼女はお構いなしだ。わたしは気づかれないよう胸で溜息をひとつつき、ベッドサイドのテーブルで煙草に火をつける佐伯の顔に視線を送った。
彼はただ微笑して、細身の、脂身のない身体からバスタオルを取りさって、シーツのなかにくるまった。市外のホテルの一室、選んだのは彼のほうだった。
舌の回転も怪しく、さんざんにつきあいはじめたばかりの彼氏の話題を一方的にまくしあげた。
「不思議よね。男たちが気にするのって。つきあって何ヶ月とか、何年とか。昔の彼氏のことも聞きたがるし…」
「正直に言ってる? 昔の彼氏のこと」
「最初は嘘ばかり。猫かぶってた」
「そうよね。今は?」
「慎みなくなるわよね」
だからケンカするのよ、その未熟をわたしは指摘しなかった。
「そうそう。彼のことだった。つきあってた期間とかさ、昔の恋愛とかさ。私たちにはどうでもいいことなのよね。美佳もそうでしょ?」
「男であるため、を支えているのは過去と時間、女でいるため、に求めるのは現在と未来」
「あら、いいセリフね。誰の言葉?」
「わたしよ」
「さすが。結婚と離婚を経験したひとは……」
「違わないわよ。あなたと同じ。こわごわ恋愛しているのよ」
「それでも、なにか教訓みたいなもの得たでしょ。私よりもオトナを感じるわ」
「大したことないわ」
「うそ」
「もとの場所に戻っただけ。ダンスのステップのようにね」
本当にそうかしら、屈託なく笑いながら彼女は電話を切った。もう大丈夫だろう、これで彼女はゆっくりと眠れるはずだ。眠れない夜は、どちらかがなぐさめる習慣となって久しい。
「……ぼくがいいそうなことだ」
「さっきの?」
「ああ」
「考え方が似てきてるのよ。気にしないで」
わたしはただ黙って彼に裸の胸をおしつけた。硬い身体に薄い皮膚が、膜のようにぴんとはっている。血管が浮いている。ひやりとする冷たい肌をしていた。
「きみも未来が欲しいのか」
未来なんてないに決まってる。唇を重ねたら、その次の言葉を呑み込ませてしまえる。出口のない論争を続ける気はもうなかった。佐伯の言う未来を信じることは辛かった。彼は娘とも別れることとなる。
そのうえわたしは彼との子供を育てている。
認知という言葉も忘れてしまって久しい。
「きみにとって結婚ってなんだった?」
わたしは唇を彼のうなじに這わせていた。
「そうね。空白のスケジュールブック」
「なに、それ?」
彼は小さく笑いながら照明を落とした。身体を重ねる前の言葉遊びが始まっていた。そこが彼の大人なところだと思った。そこをわたしが愛していることをよく知っている、だから続けてられるのだとも思った。
「結婚してないときって、こうして予定を書き込むでしょ。あなただって、今日は印をつけたでしょ」
「ああ」
「結婚すると印をつけることすらなくしてしまうの。真っ白なカレンダー、そこには退屈な、それでも安心できる毎日が、ただ行儀よく並んでいるの」
「それは辛いな」
彼は沈痛そうな声音で優しく言った。演技だとわかってた。彼だって家庭のことは印をつけることがなくなってる。わたしとの間の記号、それだけが彼を支えていることもわたしはよく知っていた。
「辛いと思ったから、わたしの今があるの。真っ白なカレンダーよりも、今が素敵と思えるの」
嘘だ、声に出そうになった。
彼の吐息に熱さがこもり、おおきな掌が乳房をおおっている。全身の肌が目を覚ますのを感じていた。波に揉まれてるような心地よさが際限なくひろくなっていく。
未来を否定したわたしは、進まない時計の文字盤のなかで抱かれている。
最後にそう思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます