第2夜 小夜

 蒼いそらが見えた。

 あたしの部屋は東に向いていて、家のなかでも最初に日がのぼる。四角に窓が切り取ったそらは、胸が痛くなるほど澄んでいた。

 そうしてまた一日が始まるという残酷なことを、あたしは知るのだ。

 昨日と同じように無為の一日が始まるということを、あたしは知るのだ。

 なにもかもが面倒になって、この部屋でふさぎ込むようになってから幾日たつのか、それすらも考えたくないことだった。あたしは自分の顔を見つめるのをやめ、心に問うことをやめ、身体の線に努力することをやめている。そして性欲や食欲や、生きていくための本源的な欲望が、しだいに薄くなっていくことを歓迎している。

 理由はよくわからない。

 恋愛のようなことが原因ならば、まだ感情を向ける対象があって、そちらのほうがどれだけ対処できることだろう。ただ自分のことが途方もないくらいにキライになった。

 自分に失恋したのだ、と言えなくもない。

 電話だと母がよぶ声がする。高校の先輩からだよ。同窓会名簿をつくるんだってさ。あたしは億劫なこころをなだめて電話口に出る。携帯の電源はいれないことにしていた。着信拒否をするのも苦しいからだ。


 やっぱり最近、別れた男性だった。

「先輩だなんて、嘘しかないのね」

「冷たい言い方だ」

「なんて言っていいかが判らないの」

「家にまでかけて悪いと思ってる。だけど声が聞きたくなった。勝手だいわれても承知している」

「勝手よ、もう切るわね」

 彼が、あたしに戻ってきて欲しいと願う気持ちは理解できる。彼にしてみれば生爪を剥がされたような傷だろう。だけどあたしにはそれを顧みる余裕すらない。そのことを男性に理解しろというのが酷なのだろうか。電話の向こうにあなたがいることが問題なのだ。あなたがいる部屋はここにはもうないのに、あたしの胸に棲みたがる、それがあたしにはもどかしかった。

「悪いけれどあなたに割ける時間はないわ。むしろ戻してほしいくらいよ。それができるものならね」

 あたしは一方的に電話を切って自室に戻る。

 姿見の前に立って、輪郭のぼやけているのを知る。

 枯れているな、と口にでて、ひどく失望する。

 一瞬前の自分に呑み込まれることを恐怖し、嫌悪する。時間という軸は確かに存在して、失われた自分はもっと優れていたのではないか、またその時間軸には正しい分岐路があったのではないか。またその思いを捨てきれない自分に立ち戻っては、自己否定の迷宮にどこまでも入り込んでいくのだ。

 パソコンを立ち上げてサイトをチェックする。

 自分のペースを乱すような電話を避けるのはちょうどいい。サイトだったら好きな時間に読むことができて、保存しておくことも、消去してしまうこともできる。直接会ったり、声を交わすこともない。その冷たさがしっくりと今の気分にあう。

 つねづねチェックをいれているサイトがあって、そこの掲示板には毎日訪れるようにしていた。あたしはそこでふたつのバンドルネームを持っている。しかもそのうちのひとつは男性を装っている。

 あたしが女として立てた書き込みに様々なスレッドがしがみついている。罵倒めいたものから、なかには母親が書いているようだと感心するほど寄り添うものもある。

 別ネームで掲示板の自分を痛烈に罵ってみたりもする。

 その言葉を追って打ち込まれる無為の言葉のレイプが、際限もなく波紋のように続く。そのさまを、冷笑を育てながら見ている。

 自分が発する言葉や思いが2進法へ翻意されている。わたしの匂いも肉体の重みもない世界に生きている。そこは2次元の世界にいる自分を、3次元にいるあたしがただ眺めている姿をおもわせた。

 《この女の棲んでいるのはここ》

 そう書かれたログの添付アドレスを開く。どうせアダルトサイトに繋がるに決まっている。送られてきたページをみて愕然とした。あたしがよく使う地下鉄の降り口、自宅近くの住宅地の表示板。コンビニへ向かう後ろ姿。これだけでは人物を判別できるものではないけれど、このコートは捨ててしまおう。

 《希望者は並んで並んで。中身はこれ》

 ページが開く間、思わず背後を振り返る。まるでこの瞬間の素顔さえ盗み見られたような怖さがあるからだ。焦燥と恐怖が交じり合って、呼吸が辛くなる。ふたたび液晶を見直しても、冷たい爬虫類の鱗が背中を撫でていったような、ぞくりとくる視線が這い回っているような気がしてならない。

 見慣れない裸が、顔を伏せて映っている。白い歯の並び方が気に入らない。乳房が横に流れている。茂みは濃いほうだ。髪の長さだけがあたしに似ている。

 動悸が静まるまで、その写真を睨み続けた。

このログの削除依頼を申し込むことはできる。しかしあたしが気づくまで、そして削除が完了するまで、この醜い裸体はネットのなかを漂い続け、拾いつづけられてゆく。

 ああ、それでも構わない。この女を装えばいいだけのことだ。この女の肉が、2進法のあたしと同一となってそのままゴミにしてしまえばいい。ネームを変えて昆虫のように脱皮してしまえる。だってここは居心地のいい磁場なのだから。

 ただ釘だけは刺しておきたい。それも屈辱的に、連鎖して嘲笑を浴びせられるものがいい。

《ひさしぶりで燃えたわ。でも勃たなかったくせに》

 少し媚びも売ってしまったかな、送信してしまったあとで、わたしは唇のさきでつぶやいた。

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